田沼意次
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 凡例田沼 意次
牧之原市史料館所蔵
時代江戸時代中期 - 後期
生誕享保4年7月27日1719年9月11日
死没天明8年7月24日1788年8月25日
改名龍助(幼名)→意次
戒名隆興院殿耆山良英大居士
墓所万年山勝林寺東京都豊島区駒込
官位従五位下主殿頭従四位下侍従
幕府江戸幕府小姓小姓組番頭御側御用取次
側用人老中格老中
主君徳川家重徳川家治
相良藩
氏族田沼氏
父母父:田沼意行、母:田代高近の養女・辰
兄弟意次、意誠、意満
妻正室:伊丹直賢の娘
継室:黒沢定紀の娘
意知、勇次郎、勝助、意正、松三郎、
土方雄貞九鬼隆棋、千賀(西尾忠移室)
宝池院(井伊直朗室)
養女:新見正則の娘(大岡忠喜室→土方雄年室)
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田沼 意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の旗本大名江戸幕府老中遠江相良藩の初代藩主(相良藩田沼家初代)。第9代将軍徳川家重と第10代家治の治世下で側用人と老中を兼任して幕政を主導し、この期間の通称である「田沼時代」に名前を残す。
生涯
出生

享保4年(1719年7月27日紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600を継いだ[1]

意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し、そして意次が生まれた。そのため、意次は七面大明神に感謝し、家紋七曜星に変更したといわれている。
相良藩主時代

元文2年(1737年)、従五位下主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。寛延元年(1748年)に1400石を加増され、宝暦5年(1755年)にはさらに3000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩百姓一揆郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。

宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、その子の第10代将軍徳川家治の信任が厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)には御側御用取次から板倉勝清の後任として側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。安永元年(1772年)、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増でわずか600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。順次加増されたため、この5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国下総国相模国三河国和泉国河内国の7か国14郡にわたり、東海道から畿内にまたがる分散知行となった[2]
田沼時代詳細は「田沼時代」を参照

この頃より、老中首座である松平武元など意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。

吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、この増税路線は9代将軍家重の代には百姓一揆の増発となって現れ、破綻した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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