たがわ すいほう田河 水泡
『商工経済』14-2、経済通信社、1961年
本名高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)
生誕 (1899-02-10) 1899年2月10日
日本・東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)
死没 (1989-12-12) 1989年12月12日(90歳没)
国籍日本
職業漫画家・落語作家
代表作『のらくろ』
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紫綬褒章
勲四等旭日小綬章
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田河 水泡(たがわ すいほう、1899年〈明治32年〉2月10日 - 1989年〈平成元年〉12月12日)は、日本の漫画家、落語作家。本名?高見澤 仲太郎(たかみざわ なかたろう)。
昭和初期の子供漫画を代表する漫画家であり、代表作『のらくろ』ではキャラクター人気が大人社会にも波及し、戦後もさまざまなキャラクターグッズが作られるなど、社会現象となるほどの人気を獲得した。 東京府東京市本所区本所林町(現・東京都墨田区立川)の生まれ。出生直後に母親が亡くなり、父親が再婚するために、仲太郎は子供のいなかった伯父夫婦の元で育てられる。中国画や庭いじりを愛好していた伯父の影響で、仲太郎も絵筆を取るようになる。 しかし、再婚した父親が数年後に亡くなり、育ての親である伯父も仲太郎が小学5年生の時に亡くなると、一転、生活に困窮するようになり、深川区立臨海尋常小学校(現・江東区立臨海小学校)を卒業後は働きに出ざるを得なくなり、薬屋の店員やメリヤス工場の少年工員として働くという「家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期」[1]を過ごした。 その後、徴兵され、朝鮮や満州で軍隊生活を送り、1922年(大正11年)に除隊し帰国。帰国後は画家を志し、日本美術学校(現・日本美術専門学校)に入学。村山知義らが主宰する前衛芸術集団『マヴォ』に参加し高見沢 路直と名乗っていたものの深入りはせず、1926年(大正15年)に退団。 近所に小林秀雄が住んでおり、妹の小林潤子を見染め、当時の小林宅の大家だった松本恵子(翻訳家)を介して知り合い、1928年(昭和3年)に松本夫妻を仲人に、恵子の知人の牧師により、洋風の結婚式を挙げた[2]。結婚に際し潤子は、病弱な母の面倒を見たいこと、自分のやりたいことをやらせてほしいこと、飲酒を止めてほしいことを条件にし、仲太郎こと田河水泡はすべて了解し、日本禁酒同盟にも参加した(禁酒は挫折)[3]。 仲太郎は卒業後、展示装飾の手伝いや広告デザインの仕事でどうにか食いつなぐ売れない絵描き時代を過ごしていたが、もうひとつの夢であった文筆業への進出を試みる。当初は小説を売り込もうと考えていたが、ライバルが多すぎる上に出版社自体も無名の新人は使わないだろうと考え、当時の大衆誌に必ずといっていいほど掲載されていた落語や講談に目を付け、書き下ろし新作[注釈 1]の落語の執筆に取り掛かる。 書き上げた新作落語を大日本雄辯會講談社の「面白倶楽部」に持ち込み掲載されて以降、講談社の別の雑誌からも依頼が来るようになり、売れない絵描きは一転、落語作家として売れっ子になる。当時のペンネームは「高沢路亭」という年寄りみたいなものであり、最初の持込みのときに、対応した編集者から使いの者と勘違いされたというエピソードがある。なお、水泡の新作落語は今日にも残っており、初代柳家権太楼や桂文治 (10代目)が得意としていた『猫と金魚』が有名。 落語作家として売れっ子となる中で、美術学校卒業という経歴が面白がられ、新作落語に挿絵も描いてほしいという依頼を受けるようになる。1年後には、編集者から依頼を受け、新作落語執筆の合間に漫画の執筆に取り掛かる。初連載は1929年(昭和4年)の『人造人間』。
生涯
幼少期 - 学生時代
落語作家時代
兼業漫画家時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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