田沢疏水(たざわそすい)は、秋田県南東部に広がる仙北平野を南北に流れる農業用水路である。
2006年(平成18年)2月3日に「疏水百選」に選ばれている。受益面積は約3,890haである[1]。仙北平野(横手盆地北部)地形図 南北に連なる急峻な奥羽山脈(東)と低平な仙北平野(中央)のあいだには、山脈から西へ向かって流れる小河川の堆積作用により大小の扇状地が形成されている。右側上方(北東)にみえる青色部分が田沢湖。その南側の山間地に疏水の取水口である神代調整池が確認できる。 横手盆地の北半を占める通称「仙北平野」は、北流する雄物川およびその支流で南西に向かって流れる玉川の流域に相当し、これらに注ぐ斉藤川
立地と地域概況
しかし、扇頂部と扇端部の中間に広がる扇央部の伏流水地帯(神代村真崎野、豊岡村の柏木野・木内林、長信田村の田屋野・小曽野・千本野、横沢村の駒場野、千屋村の若林野、金沢町から六郷町六郷東根にかけての明天地野の各地域)は、地表面では水無川となっていて水が得にくいうえに、土壌は砂礫層が卓越して保水力に乏しいため稲作には向かず、林地、牧草地、畑地、道路、また明治以降は桑畑などとして用いられてきた[3]。このうち、林地は木炭の一大産地であり、かつては燃料資源において重要な位置を占めており、農家の冬期間の副業として炭焼きがさかんにおこなわれていた[注釈 2]。野ツツジやアカマツ、スギの広がる原生林も広大な面積を占めた[4]。牧草地は、主として馬産のために活用され、農耕馬・軍馬を供給した。仙北郡中西部の神宮寺町笹倉には国立の種馬所があり、南端の飯詰村山本には江畑新之助が建設した後三年競馬場があった[注釈 3]。
養蚕もまた、戦前の地域経済を支えた。初代六郷町長を務めた畠山久左衛門は、当地の養蚕業の発展に尽力した人物として知られている[5]。
沿革
前史
上堰・下堰・御堰の建設「下堰」掘削時に出土した国宝の「線刻千手観音等鏡像」(大仙市豊川の水神社所蔵)
仙北平野東部の奥羽山脈西麓地域における未墾地開拓の歴史はきわめて古く、江戸時代前・中期にさかのぼる[6][7]。扇央部に広がる原野・採草地は、水量豊富な玉川の水を利用して開墾が進められた[7]。玉川に取水した当時の主要な用水路としては上堰(白岩・豊岡・横沢)、下堰(白岩・豊川・横沢)があり、さらに四ケ村堰(豊川)、若松堰(神代)、黒倉堰(白岩・神代)、鶯野堰(長野)、高瀬堰(四ツ屋・花館)、松倉堰(四ツ谷、神宮寺)などがあった[7][注釈 4]。ただし、これらは主として扇端部の灌漑には利用されたものの、扇頂部や扇央部の砂礫地のほとんどは依然放置されたままであった[7]。
この扇央部の山林原野を開墾することは藩政期を通じての念願であった[7]。「上堰」完成から約130年後の文政7年(1824年)、ようやく久保田藩の藩主佐竹氏が開墾事業に乗り出した[6][8]。これは、角館蘆名氏の遺臣蓮沼仲の進言と計画によるもので、藩主佐竹義厚による裁可のもと藩営事業として「上堰」の東側に白岩から六郷まで約33キロメートルにおよぶ用水路「御堰(おせき)」を建設し新田開発と古田の補給水として利用しようというものである[6][7][8][注釈 5][注釈 6]。