この項目では、2代田村駒治郎について説明しています。初代については「田村駒治郎 (初代)」をご覧ください。
2代 田村 駒治郎(たむら こまじろう、1904年(明治37年)2月21日 - 1961年(昭和36年)1月21日)は、日本の実業家。
なお「田村駒治郎」の名前は世襲で、本項に記載するのは二代目である。以下の文中では断りがない限り「駒治郎」は二代目を指し、その他の駒治郎については「×代」を前に付けて区別する。また、文献によっては「田村駒次郎」の表記が見られる場合があるが、誤りである。 1904年、大阪市東区(現・中央区)に、田村駒創業者である初代田村駒治郎の長男として生まれる[1][2]。出生時の名前は「駒太郎」であった[1]。少年時代より野球を愛好する[3]。大阪市立天王寺商業学校を1921年に卒業すると、田村駒に入社して社業に従事する[1][2]。当初は丁稚であったが、2年後から販売の仕事に就き、優秀な成績をあげる。1926年8月、希望していた欧米旅行が父に認められ、翌年1月にかけて、西回りのルートでヨーロッパとアメリカを訪れる[1][2]。この旅行でアメリカの社会や風俗に多大な影響を受けたとされる。また、当時日本にはなかったプロ野球に接し、球団のオーナーが社会的に尊敬されることを知る[4]。帰国後、安田財閥一門の安田善助(安田善次郎の甥)の次女と結婚[1]。 1931年3月に父が死去し、二代目駒治郎を襲名[1][5]。2ヶ月後に社長に就任すると[6]、船場の商家のスタイルを残していた田村駒を近代的な企業にするための改革に取り組む[5]。住み込みだった従業員のために社員寮を建設し、番頭・手代などの職制を部課長などの役職に改め、従業員の服装も着物から洋装に変えさせた[5]。さらに1936年には本社を6階建てのビルディングに建て替え、古い木造の商家がまだ多く残っていた船場の中でひときわ目立つ存在となった[5]。このような急進的な改革には社内の批判もあり、伊藤萬に対抗して開かれて間もない御堂筋沿いに本社を移す構想は「初代の意志に背く」との反対から断念を余儀なくされている[7]。 駒治郎は製販一体の事業をめざして1934年に繊維製造の太陽レーヨンを設立[8]。翌年に岡山県玉島町(現・倉敷市玉島)にレーヨン工場を建設して操業を開始した[8]。1936年には岐阜県大垣市にもスフの工場を建設したものの、後発メーカーのために伸び悩む[8]。価格等統制令で思うように商売ができなくなった時期には、新たな仕入先と市場を求めて満州や中国への進出を企図したこともあった[8][9]。 1937年夏、プロ野球の大東京軍に資本参加[10]。この時期に大東京軍は「ライオン本舗」を名乗っていた小林商店(現・ライオン (企業))と提携し、ライオン軍となった[注 2]。同年シーズン終了後にチームを買い取り、オーナーとなる[5]。また、田村駒と太陽レーヨンでクラブチームを結成した。田村駒は1938年の都市対抗野球で大阪府代表(大阪市)。翌1939年の大会では庄内田村駒(庄内町、現豊中市)と太陽レーヨン(大阪市)が大阪府代表となり、庄内田村駒は準優勝となった[12][注 3]。
生涯