田村神社_(甲賀市)
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田村神社

本殿
所在地滋賀県甲賀市土山町北土山469
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度55分50秒 東経136度17分54秒 / 北緯34.93056度 東経136.29833度 / 34.93056; 136.29833座標: 北緯34度55分50秒 東経136度17分54秒 / 北緯34.93056度 東経136.29833度 / 34.93056; 136.29833
主祭神坂上田村麻呂公正一位田村大明神[注 1]
嵯峨天皇
倭姫命
社格等旧県社
創建伝・弘仁3年(812年
本殿の様式三間社流造
札所等神仏霊場巡拝の道第134番(滋賀第2番)
例祭4月8日
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本殿前の階段 鳥居

田村神社(たむらじんじゃ)は、滋賀県甲賀市土山町にある神社旧社格県社。境内のうち第一鳥居から第二鳥居並びに第二鳥居から海道橋まで、東海道が参道の一部を通る。

毎年2月18日を中心とした3日間に執り行われる厄除大祭で有名である。
歴史

垂仁天皇45年4月8日、甲可翁が天照大神を奉じて甲可日雲宮に鎮祀した倭姫命の生霊を鎮祭して高座大明神と称したのが当社の始まりという。

平安時代坂上田村麻呂嵯峨天皇鈴鹿峠悪鬼を平定するよう命じられ、たちまち悪鬼を平定した。その際、田村麻呂は残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀りなさい」と言い、矢の落ちたところに本殿を建てさせたとされている。

田村麻呂が亡くなった弘仁2年(811年)の翌年、弘仁3年(812年)に、嵯峨天皇の勅によって坂上田村麻呂をまつる祭壇が鈴鹿峠の二子の峰に設けられた[1]。そして同年、この近辺で疫病が発生したために嵯峨天皇の勅命によって当社で厄除の大祈祷が行われた。これにより、当社は厄除の神として崇敬されるようになった。また、田村麻呂が鈴鹿峠の悪鬼を討伐して交通を安全にしたことにより、交通安全の神としても崇敬されるようになった。

弘仁13年(822年)4月8日に高座大明神の傍に二子の峰にあった田村麻呂を祀る社を移して高座田村大明神と称した。

天文の兵火により嵯峨天皇宸筆の勅額を焼失したが、江戸時代寛永15年(1638年)には後水尾天皇より正一位田村大明神の勅額を下賜され、鳥居に奉掲した[2]。江戸時代を通じて田村麻呂の子孫である一関藩田村氏の崇敬が篤かった。

かつては別当寺として、田村麻呂が蝦夷征討の時に念持仏として携えた延鎮自作の千手観音本地仏として一堂を高座野に建てた神宮寺があったが、神仏分離により慶応4年(1868年)に神宮寺との関係を解き、神宮寺にあった田村麻呂念持仏の千手観音は永雲寺に移された[3]

1872年明治5年)には高座神社と名称を改め、1887年(明治20年)4月6日に許可を受けて田村神社と改称した[4]。また、この間に県社に列格している。

1907年(明治40年)、鈴鹿峠の二子の峰にあった田村神社が三重県亀山市片山神社に合祀されている。

重宝として田村麻呂所持の楚葉矢の御剣と矢鏃三個がある[4]
祭神

主祭神 -
坂上田村麻呂公、嵯峨天皇倭姫命

配祀神 - 稲倉魂命大己貴命国狭槌尊大山咋神荒魂

境内

本殿

中門

吉崎
稲荷社

天満神社

祝谷神社

拝殿

祈祷殿

社務所
吉崎稲荷社
祭事

毎月

月次祭 (毎月18日)


1月

歳旦祭 (
1月1日)

正月大祈祷 (1月1日 ‐ 1月7日)


2月

紀元祭 (2月11日)

厄除大祭(田村まつり) (2月17日2月19日)


4月


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