田村潔司
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田村 潔司
基本情報
本名田村 潔
通称孤高の天才
赤いパンツの頑固者
Uの遺伝子を継ぐ者
回転体
PRIDEからの刺客
国籍 日本
生年月日 (1969-12-17) 1969年12月17日(54歳)
出身地岡山県岡山市
所属UWF
UWFインターナショナル
リングス
U-FILE CAMP
身長180cm
体重84kg
階級ミドル級
バックボーンプロレス(UWFスタイル)、相撲
テーマ曲Flame Of Mind(内田光一)
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YouTube
チャンネル

Kiyoshi Tamura田村潔司【一人UWF放送室】

活動期間2016年6月25日 -
ジャンルハウツーとスタイル
登録者数1.12万人
総再生回数2,471,577回
チャンネル登録者数・総再生回数は
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田村 潔司(たむら きよし、1969年12月17日 - )は、日本男性プロレスラー総合格闘家。本名・旧リングネーム:田村 潔(読み同じ)。岡山県岡山市出身。U-FILE CAMP主宰。GLEATエグゼクティブディレクター。初代、第3代リングス無差別級王者
来歴
第2次UWF

幼い頃、藤波辰巳に憧れてプロレスラーを志す。岡山理科大学附属高等学校では相撲部に所属して国体に出場。卒業後、1988年第2次UWFの入団テストを受けて合格し、1989年5月21日に鈴木実(現:鈴木みのる)戦でデビューを果たした。新人の頃は前田日明高田延彦山崎一夫の付き人を行っていたが、付き人としての忙しさは「もう体が3つ欲しかった」と語るほどであった[1]。この3人には買い物の釣銭を小遣いとして貰うなど可愛がられ、宮戸優光安生洋二などからは食事の世話をしてもらった[1]中野龍雄(中野巽耀)には礼儀作法を教わったが、実際は中野の機嫌の取り方を覚える作業であった[1]。同年10月25日、デビュー5試合目となる前田との試合で膝蹴りをくらい眼窩底を骨折、1年の欠場を余儀なくされた。1990年12月1日に復帰するが、直後にUWFは解散。
UWFインターナショナル

UWF崩壊後、UWFインターナショナルに籍を移し、頭角を現す。1992年5月8日、異種格闘技戦でボクシング世界ランカーのマシュー・サード・モハメッド裸絞めで一本勝ち。同年末に渡米し、ルー・テーズのもとでレスリング技術などを学ぶ。

帰国後、UWFインターの中心選手に成長する中で、1993年に旗揚げされたパンクラスの影響によりシュート(真剣勝負)への渇望を募らせる。一方、ベイダー参戦に見られるUWFインターのプロレス回帰にジレンマを感じ、垣原賢人を相手にシュート志向の試合を行った。

1995年6月18日、ゲーリー・オブライトに勝利するが、オブライトの無気力かつ不可解な戦い方に「お客さんに見せる試合ではない」と涙を流す[1]。同日、団体エースの高田延彦が突然引退宣言、翌7月には参院選に出馬するなどして周囲を困惑させる[1]。代わってメインを務めた田村は、試合後のコメントで高田への反感を露にした。

8月18日にオブライトと再戦、勝利した直後、リングサイドにいた高田へ「俺と真剣勝負してください」とアピールする[1]。しかし実現することなく、UWFインターは新日本プロレスとの対抗戦へと突入した。田村はこの対抗戦への参加を拒否したため(ただしリングス移籍後、山崎一夫、垣原賢人の引退試合で花束を渡すゲストとして、新日本のリングに上がったことがある)、同団体を干される格好となる。またこの年、資金難にあえぐ会社側と契約の問題で揉めたこともあり、数か月間ノーギャラで過ごし、練習も一人でスポーツジムに通って行っていた[1]。この頃は「いつ対抗戦に出るのか」「なぜ出ないのか」と同じ質問ばかりをされ、身近な人を含め周囲からは自身を気に掛ける言葉もなかった。唯一『週刊ファイト』のUWF担当記者だった波々伯部哲也から「おこめ券」の提供を受けたため、田村は未だに波々伯部に感謝している[1]

同年12月9日、K-1のリングで約4か月ぶりの試合を行う。UWFインターの所属選手として出場し、お互い素手と裸足によるアルティメット特別ルールでパトリック・スミスと対戦。この試合は消滅まで秒読みだったUWF最後の希望としての試合であり、田村は自身の性格上、負けたら格闘界を去っていたと後年振り返っている[1]。開始直後にタックルを決め、ヒールホールドで秒殺一本勝ち。後の対談では相手の玉袋筋太郎から「パトスミ戦なんてバーリ・トゥードの本当の先駆けだったわけだしね」とこの試合について語られている[1]。この試合は、バーリ・トゥードにおける日本人プロレスラーの初勝利である。

その後、UWFインターの大会に出場できるようになったが、後輩の桜庭和志や格下外国人との試合ばかり、それも第1試合や第2試合という前座の扱いになる。また、新日本との対抗戦以来、旧プロレス的な試合を続ける団体との方向性の違いにより、田村は退団の決意を固める。1996年5月27日の桜庭戦で勝利した後、レガースを脱いで客席に放り込み、同団体を去った。
リングス

1996年に大方の予想を覆しパンクラスではなくリングスに移籍。両団体から誘いがあったが(パンクラス社長尾崎允実は勧誘を否定)、「正式に契約の場を設けてくれた」という理由でリングスに決めたという。

6月29日、ディック・フライ戦に裸絞めで一本勝ちしてデビュー戦を飾る。その後順調に勝ち星を重ね、長井満也山本宜久らリングス・ジャパン生え抜きとの対戦でも勝利。リングスでの名勝負としては、引退直前であった前田日明との対戦であり、左のミドルキックで前田の脇腹がみるみる赤くなったが、最終的には前田がスリーパーで勝った試合である[1]。前田とはその年のメガバトルトーナメントで再戦し、今度は田村が腕十字で一本勝ち。リングス旗揚げ以降、前田に勝利した唯一の日本人選手となった。前田日明の引退後はエースの座を受け継いで活躍し、スピード感溢れる試合は「回転体」と称された。プロレスライターの中には、田村こそが停滞するリングスに勢いをつけた救世主であったと後年に評価する者もいた[1]

1999年4月23日、当時UFC世界ミドル級王者だったフランク・シャムロックと対戦し、引き分ける。KOKルール採用後はリングス・ネットワーク外の強豪選手と数多く対戦。2000年2月26日、キング・オブ・キングス決勝トーナメント準々決勝でヘンゾ・グレイシーに判定勝ち。その後もレナート・ババルアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラパット・ミレティッチなどと激闘を展開した。

しかし連戦への不満や契約による専属拘束などを巡って前田と反目、2000年4月20日に当時保持していたリングス無差別級王座をギルバート・アイブルに奪われた試合後のインタビューにて団体への不満をもらす。その後2001年にリングスを退団。
U-FILE CAMP設立後

田村はリングス在籍時にも、前田道場にはあまり顔を出さずサンボの道場に出稽古に赴いたり、設備の整ったジムに通うなど独自のトレーニングを行っていた。そして2000年、総合格闘技ジム・U-FILE CAMPを設立。自ら代表をつとめ、UWFインター時代の同僚・大江慎とともに一般会員への格闘技指導も始める。

2002年2月24日、PRIDE初参戦となったPRIDE.19のミドル級(-93kg)タイトルマッチでヴァンダレイ・シウバと対戦し、パウンドで削られた末に2RKO負けを喫し王座獲得に失敗した[1]

2002年6月23日、PRIDE.21ボブ・サップと対戦するが、1R11秒でTKO負け。


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