たむら まさかず
田村 正和
国際情報社『映画情報』第31巻第11号(1966年)より
生年月日 (1943-08-01) 1943年8月1日
没年月日 (2021-04-03) 2021年4月3日(77歳没)
出生地 日本・京都府京都市右京区
死没地 日本・東京都港区
身長172 cm[1]
職業俳優
ジャンルテレビドラマ・映画・舞台
活動期間1961年 - 2018年
配偶者既婚
著名な家族父:阪東妻三郎
長兄:田村高廣
次兄:田村俊磨
弟:田村亮
異母弟:水上保広
甥:田村幸士(亮の長男)
主な作品
『冬の旅』
『眠狂四郎』シリーズ
『運命峠』
『鳴門秘帖』
『若さま侍捕物帳』
『黒革の手帖』〈1982年版〉
『乾いて候』
『夏に恋する女たち』
『うちの子にかぎって…』シリーズ
『パパはニュースキャスター』
『男たちによろしく』
『ニューヨーク恋物語』シリーズ
『パパとなっちゃん』
『カミさんの悪口』シリーズ
『古畑任三郎』シリーズ
『協奏曲』
『総理と呼ばないで』
『さよなら、小津先生』
『夫婦。』
『誰よりもママを愛す』
『告発?国選弁護人』
受賞
2009年:第49回モンテカルロ・テレビ祭 最優秀男優賞
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田村 正和(たむら まさかず、1943年〈昭和18年〉8月1日 - 2021年〈令和3年〉4月3日[2])は、日本の俳優。京都府京都市右京区太秦生まれ[3][4][5][6][7]。東京都世田谷区育ち。成城大学経済学部卒業[2]。最終所属は自身の個人事務所である新和事務所[8]。
阪東妻三郎の三男で、長兄の田村高廣、弟の田村亮と共に、「田村三兄弟」と呼ばれるが[7]、実際には次兄の田村俊磨を含め4兄弟である[9]。異母弟に俳優の水上保広[10]。家族は妻(一般人女性)と娘[8]。 父阪東妻三郎が建てた阪妻プロダクションの跡地に建つ東映京都撮影所近くの京都太秦に生まれる[3][4][5][7][11]。その後同じ京都の嵯峨野に移住したが[12]、小学4年生(9歳)の時に父・阪東妻三郎を亡くし[6][11]、翌年小学5年生の時に世田谷へ移住。田村は幼い頃、なんとなく父親のしている仕事をしたいと思っており[7]、それを知った父・阪東妻三郎が大変喜んだと語っている[13]。また「僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました」とも話していた[14]。父とは普通の親子の様に手を繋いで町を歩いたり、散歩したり、映画を見に行くこともない関係であったが、丹後の宮津の定宿に毎年夏に行った時だけは一緒に遊んだり、海で泳いだりしたことがとても嬉しかったと語り、演技の影響は特に受けていないが、母から聞いた父の役者としての生き方や姿勢は影響を受けたかもしれないとも語っている[8]。成城学園中学校に進学後、中高時代にはバスケットボール部に所属していた[15][8]。 1960年、兄・高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際に勧められて、同映画の端役として出演する[6]。1961年に松竹大船と専属契約し[6]、成城学園高校在学中の9月に映画『永遠の人』で正式なデビューをした[6]。1965年『この声なき叫び』で初の単独主演[16]、また同年には阪東妻三郎13回忌としてNHKで製作された『破れ太鼓』で4兄弟が初共演を果たす[17]、以降1966年に大学を卒業するまで学業と並行して映画、テレビドラマに出演した。この間1963年『花の生涯』からは5年連続でNHKの大河ドラマに出演した。 松竹と専属契約を結んでいた頃、作品を選んで出演を決めたい、台本が出来ないうちに出演を強制されたくないと[18]、年間10本の映画出演の打診を受けたが、そのうち5本を断った[18]。また半ば強制される形で『侠勇の花道 ドス』に出演したことを後悔したという[18]。 1966年には自身が主演する映画『空いっぱいの涙』の主題歌を歌いレコードデビュー、また松竹が田村を大々的に売り出す戦略から、映画『雨の中の二人』にモッズファッションに身を包み主演、大きな話題となったが[19]、同年にはフリーとなる[6]も脇役ばかりが続く。
生涯
幼少期
役者の道へ - 松竹時代
松竹退社 ? TV時代劇を中心に活躍
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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