楚漢戦争期に再興した斉については「斉 (楚漢戦争)」をご覧ください。
斉前386年 - 前221年
国姓?姓田氏
爵位侯爵
前344年に王を称す
国都臨?
(山東省?博市臨?区)
分封者安王
始祖太公
滅亡原因秦により滅亡(斉攻略)
史書の記載史記
周朝諸侯国一覧
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田斉(でんせい)は、中国の戦国時代、紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国。国号は単に斉であるが、西周・春秋時代の姜斉と特に区別する場合に?斉または田斉と呼ばれる。戦国時代中期には、?王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、戦国七雄の一つにも数えられる。首都は姜斉の時と変わらず臨?であった。 田氏の先祖は、紀元前672年に陳から斉へ亡命してきた陳(?姓)の利公?躍(きやく)の子の公子完である。斉では代々、呂尚(太公望)の子孫である斉公に仕えてきた。 斉の景公の時、田乞(田釐子)が税を徴収する時に小さな斗を使用し、粟を民に配給する時は大きな斗を使用して、民の気持ちをつかみ、また、景公が亡くなった時の公位継承争いで悼公を立てた。田釐子が亡くなると田恒(田成子、ただし『史記』では前漢の文帝劉恒を避諱して「田常」と表記)が後を継いだ。父の田釐子とともに悼公を立てた鮑牧が仲違いを契機に悼公を殺害すると、簡公が立てられ、?止とともに大臣となったが、2人は並び立つことができず、勢力争いをすることになる。?止の陰謀を知った田成子が先手を取り、?止に続いて簡公を殺して、平公を立てた[注 1]。 前391年、姜斉の最後の君主の康公は田和により海島の孤島に追放された。食邑に一城与えられ、祖先を祀ることを許された[1][2]。田和は自立し君主となった(太公)。前386年、田和は周の安王により諸侯に列された。これにより姜姓の斉から田氏の斉に取って代わられた。田和は正式に侯となり、国号を姜斉時代と同じく斉とした。これを「田斉」という。この出来事は「田氏代斉」(姜斉の滅亡 太公の2代後、子の桓公は臨?に稷下学宮を開き、各国の賢人を招き入れた。これは威王や宣王の代にも続き、東方の学問の中心地となった。子の威王が即位し、鄒忌を相国に任命し政治を改革させた。田忌
歴史
諸侯になるまで
姜斉の滅亡
王を名乗る
前314年、燕で「子之の乱」が発生した。孟子の献策により[9]、5都の兵を率いて燕へ侵攻
(中国語版)することを匡章に命じた。前301年、斉と韓・魏が楚を攻め垂沙の戦い(中国語版)で大勝した。前298年から前296年に、斉と韓・魏が合従し秦の函谷関に侵攻し、秦に和を求めた[10][11]。前288年、秦の昭襄王は西帝、?王は東帝を名乗り[12][13]、共同で趙を攻めた。蘇代は帝号を名乗る不利益を説き、?王は王号に復称した。同年十二月、呂礼(中国語版)が秦に派遣され昭襄王の帝号を王号に復称した[14]。前286年、宋の内乱に応じて宋を滅ぼし、南は楚、西では三晋(趙・魏・韓)に侵攻した。斉は全盛期を迎えた[15]。
合従軍の侵攻詳細は「済西の戦い」を参照
宋の滅亡に諸国は危機感を募らせた。秦は趙や楚と和を結んだ。前284年、燕の昭王は楽毅を上将軍に任命し、燕・秦・韓・趙・魏の5国合従軍は済西の戦いで斉軍を大敗させた。合従軍はそこで解散したが燕は追撃を続け、国都の臨?の他、七十余城を落とした。斉の領地は?と即墨のみとなった[16]。国都の臨?を落とされた?王は?に逃亡したが、楚が救援のために派遣した?歯に殺された[17][18]。王孫賈や?の人は?王の仇の?歯を殺し、?王の子の田法章を襄王として王に立て、必死に抵抗し?を守った[19]。
田単の復国詳細は「即墨の戦い」を参照
?とともに即墨も燕の攻撃に必死に抵抗した。即墨の大夫は楽毅の策にかかり戦死したため、城内の兵士や民衆は公族である田単を将にした。5年が過ぎ、前279年に燕の昭王がこの世を去り、恵王が燕王となった。恵王は楽毅を恨んでおり、田単はそれを知っていたため反間の計を使った。恵王は楽毅を将軍から罷免し、代わりに騎劫を将軍とした。命の危険を感じた楽毅は趙に亡命した。田単は攻勢に出て、「火牛の陣(中国語版)」で燕軍を大敗させた。遂に斉は70余城を取り戻した。田単はこの功により相国に任命された。しかし、秦とともに帝号を名乗っていた時代の力は無く、秦の統一に抵抗することはできなかった[20]。
斉の滅亡詳細は「斉攻略」を参照
前265年、襄王が死に、子の田建が即位した。母の君王后(中国語版)が輔政した。前249年、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝(中国語版)が執政した。