田 建(でん けん、生没年不詳)は、中国の戦国時代の斉の最後(第8代)の君主(在位:紀元前264年 - 紀元前221年)。王としては5代目。父は第7代の襄王。 襄王19年(前265年)、襄王が死に、田建が即位した。即位当初は母親である君王后
生涯
斉王建16年(前249年)、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝(中国語版)が執政した。后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した。田建は后勝の主張を聞き入れ、五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった[1][2]。五国が滅亡すると、田建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊を西部の辺境に集結した[3]。
44年(前221年)、秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨?へ侵攻した。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した[3][4]。田建は降伏し、斉は滅亡した[5]。ここに秦の中国統一は完成した。
その後、田建は身柄を共(現在の河南省新郷市輝県市)に移されたという。また、魏の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死したとも伝えられている[6][7]。
始皇帝没後に秦が弱体化すると、田建の弟である田假が挙兵して斉王になった。また孫の田安も済北王になって斉を再興したが、内紛により田栄に殺害された。 ある時、秦王[注釈 1]の使者が玉連環を携えて斉を訪れ、知者の有無を確かめようとした。群臣に外せるものがいないのを知った君王后は、使者の前で玉連環を槌で叩き割って分解してみせ、面目を立てた[8]。
玉連環
注釈[脚注の使い方]^ 『戦国策』の底本によって、昭襄王となっているものと、秦王政となっているものとがある。
出典^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六
^ 《戰國策・卷十三・齊策六》:君王后死,后勝相齊,多受秦間金玉,多使賓客入秦,皆為變辭,勸王朝秦,不脩攻戰之備。
^ a b 島崎晋 2019, p. 102.
^ 寺田 1997, p. 49.
^ 《史記・卷四十六・田敬仲完世家第十六》:五國已亡,秦兵卒入臨?,民莫敢格者。王建遂降,遷於共。故齊人怨王建不蚤與諸侯合從攻秦,聽奸臣賓客以亡其國,歌之曰:「松耶柏耶?住建共者客耶?」疾建用客之不詳也。
^ 《資治通鑑 秦紀卷七》:齊王建也死於流放之地。王賁自燕南攻齊,卒入臨?,民莫敢格者。秦使人誘齊王,約封以五百里之地。齊王遂降,秦遷之共,處之松柏之間,餓而死。
^ 《戰國策・卷十三・齊策六》:齊王建入朝於秦,雍門司馬前曰:「所為立王者,為社稷耶?為王立王耶?」王曰:「為社稷。」司馬曰:「為社稷主王,王何以去社稷而入秦?」齊王還車而反。即墨大夫與雍門司馬諫而聽之,則以為可可為謀,即入見齊王曰:「齊地方數千里,帶甲數百萬。夫三晉大夫,皆不便秦,而在阿、?之間者百數,王收而與之百萬之?,使收三晉之故地,即臨晉之關可以入矣;?、郢大夫,不欲為秦,而在城南下者百數,王收而與之百萬之師,使收楚故地,即武關可以入矣。如此,則齊威可 立,秦國可亡。夫舍南面之稱制,乃西面而事秦,為大王不取也。」齊王不聽。秦使陳馳誘齊王内之,約與五百里之地。齊王不聽即墨大夫而聽陳馳,遂入秦。處之共松柏之間,餓而死。先是齊為之歌曰:「松邪!柏邪!住建共者,客耶!」
^ 『戦国策』巻十三 斉策六「斉閔王之遇殺」より。
参考文献
『史記』
『史記の事典』(青木五郎、中村嘉弘。大修館書店)
島崎晋『春秋戦国の英傑たち』双葉社、2019年。
寺田隆信『物語 中国の歴史』中央公論新社、1997年。
表
話
編
歴
田斉の第8代君主(前265年 - 前221年(滅亡))
紀元前670年、陳の公子完が斉に亡命、陳氏(田氏)が成立する
陳完
陳穉
陳?
陳須無
陳無宇
田開
田乞
田恒
田盤
田白
田悼子
紀元前386年、田氏が正式に諸侯として認められる
太公前386-前385
田?前384-前375
桓公前374-前357
威王前350-前320
宣王前319-前301
?王前300-前284
襄王前283-前265
田建前264-前221
紀元前209年、陳勝・呉広の乱に際して田?が斉王を称する
田?前209-前208
田假前208
田?前208?206
(田都・田?・田安の三王に分割される)前206
田栄前206-前205
田假(復位)前205
田広前205-前203
田横前203-前202
Category:斉の君主
表
話
編
歴
秦の統一戦争
統一戦争
衍氏の戦い
?の戦い
平陽の戦い
肥の戦い
番吾の戦い
城父の戦い
攻略戦
韓攻略
趙攻略
魏攻略
楚攻略
燕攻略
斉攻略
主要人物
秦
秦王政
李斯
尉繚
内史騰
桓?
王翦
王賁
李信
蒙恬
蒙武
楊端和
辛勝(中国語版)
韓
韓王安
趙
幽繆王
李牧
司馬尚
代王嘉