田山花袋
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田山 花袋
(たやま かたい)

誕生1872年1月22日
日本栃木県[注釈 1]邑楽郡館林町(現・群馬県館林市
死没 (1930-05-13) 1930年5月13日(58歳没)
日本東京府豊多摩郡代々幡町(現・東京都渋谷区代々木
墓地 日本多磨霊園
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
ジャンル小説
文学活動自然主義文学
代表作『重右衛門の最期』(1902年)
蒲団』(1907年)
『生』(1908年)
『妻』(1909年)
『田舎教師』(1909年)
『縁』(1910年)
『一兵卒の銃殺』(1917年)
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田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日明治4年12月13日〉 - 1930年昭和5年〉5月13日)は、日本小説家。本名、録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生まれ。

尾崎紅葉のもとで修行したが、後に国木田独歩柳田國男らと交わる。『蒲団』『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家の一人。紀行文にも優れたものがある。
経歴

栃木県[注釈 2]邑楽郡館林町(現在の群馬県館林市)に、田山ワ十郎・てつ夫妻の次男として生れた。田山家は、代々の秋元藩士。父は、1876年(明治9年)警視庁邏卒となり一家で上京するが、1877年(明治10年)西南戦争の際に従軍して肥後飯田山麓の闘いで戦死したため、館林に戻る。

1880年(明治13年)冬、9歳で足利で丁稚奉公した後、翌年2月に上京し、京橋区南伝馬町の有隣堂書店で丁稚奉公するが、不都合(詳細不明)により、1882年(15年)5月に帰郷する。

12歳から漢学塾(藩儒吉田陋軒の休々塾。兄が21歳で塾頭となる)で漢詩文を学び、14歳の時には漢詩集を編んだ。また桂園派の和歌や西洋文学にも親しむ。

兄に従い上京し、1890年(明治23年)、柳田國男を知る。翌年に尾崎紅葉のところに入門、その指示で江見水蔭の指導を受ける。『瓜畑』(古桐軒主人名義)を初めて発表し翌年から花袋と号した。当初は硯友社の影響を受けていたが[注釈 3]1896年(明治29年)に国木田独歩島崎藤村と知り合う。翌年、独歩、國男らと『抒情詩』を刊行し、ここに40編の詩を収めた。モーパッサンの影響を強く受け、1902年(明治35年)に『アカツキ叢書』の第5編として書き下ろした『重右衛門の最後』を発表し、これで作家としての力量を認められる。1899年(明治32年)に結婚し、大橋乙羽の紹介で博文館に勤務し、校正を業とする。

1904年(明治37年)、日露戦争が勃発すると、第二軍の写真班で従軍記者をつとめた。3月23日、東京を出発し、3月29日、広島市大手町の宿に同軍軍医部長の森鴎外を訪ねており(初対面)、8月15日に発熱し9月16日に宇品に着き、9月20日に帰郷するまでの間(1905年1月『第二軍従征日記』として刊)、鴎外と頻繁に会っていた。なお、後日「……私は殊に鴎外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。鴎外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。」と書いた(「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月)[2]


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