田坂具隆
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たさか ともたか
田坂 具隆
キネマ旬報社『キネマ旬報』第108号(1955)より
生年月日 (1902-04-14) 1902年4月14日
没年月日 (1974-10-17) 1974年10月17日(72歳没)
出生地 日本広島県豊田郡沼田東村
(現:三原市沼田東町)
民族日本人
職業映画監督
ジャンル映画
活動期間1924年 - 1968年
配偶者瀧花久子
著名な家族田坂勝彦(弟)

 受賞
ヴェネツィア国際映画祭
イタリア民衆文化大臣賞
1938年五人の斥候兵
ブルーリボン賞


監督賞

1958年陽のあたる坂道

その他の賞

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田坂 具隆(たさか ともたか、1902年4月14日 - 1974年10月17日)は、日本の映画監督広島県出身。
来歴

瀬戸内海に面した漁村、広島県豊田郡沼田東村(現在の三原市沼田東町)に生まれた[1][2]。現在は市街地となっている。5歳で母と死別、京都で父に育てられ第三高等学校(現在の京都大学)に進学するが、父の事業の失敗で中途退学。小新聞社の記者として勤務のち、病弱で兵役免除となったのを機に厳格な父の反対を押し切って1924年(大正13年)、日活大将軍撮影所へ入社。助監督となり、徳永フランク、三村源治郎、村田実溝口健二鈴木謙作らにつき、3年目には早くも監督に昇進した。『かぼちゃ騒動記』で監督デビュー後、『情熱の浮沈』、『阿里山の侠児』、『かんかん虫は唄う』、『この母を見よ』、『春と娘』など、様々なジャンルの作品を発表。『愛の風景[3][4]』主演の入江たか子(1929年)

入江たか子主演の『心の日月』の大ヒットで一線に立ち、自分の企画で映画を作れるようになった[5]。1932年(昭和7年)、日活太秦撮影所の争議で内田吐夢伊藤大輔、村田実らと「七人組」を結成し日活から独立、新映画社を興すが解散。新興キネマを経て『月よりの使者』と『明治一代女』のヒットで日活多摩川撮影所に復帰、ここで田坂具隆の名を日本映画史上永遠のものとする時期を迎える[6]。 

1938年(昭和13年)、山本有三作『真実一路』と『路傍の石』の2作品は、ヒューマニズムに貫かれた田坂の代表作となった。また戦争映画の『五人の斥候兵』と『土と兵隊』では、戦う兵隊の人間らしさの表現に、暖かい眼を注ぐことを忘れなかった[1]。どちらかといえば平凡な作風と思われがちだった人が、その持てる真価を静かに世に問うた[6]

同年、『五人の斥候兵』が第6回ヴェネツィア国際映画祭でイタリア民衆文化大臣賞を受賞。本作は外国で賞を獲得した最初の日本映画といわれ[7]、日本映画界初の世界三大映画祭受賞作である。この一年を境に僚友・内田吐夢とともに日活を代表する巨匠の座についた[6]

1939年(昭和14年)、『土と兵隊』が第7回ヴェネツィア国際映画祭で日本映画総合賞を受賞。

1942年(昭和17年)、戦時統合により日活が映画製作から一旦撤退したため、松竹へ移籍するが、1943年(昭和18年)、助監督たちを所長のマキノ雅弘に預け、松竹下加茂撮影所を退所。内田吐夢とともに東京大船撮影所へ移動する。太平洋戦争中は岩田豊雄(獅子文六)原作の『海軍』や『必勝歌』など国策に順応した映画も撮影した。同世代の内田吐夢とはつねに並べて考えられ、論じられた[6]。吐夢の豪気に対して、田坂は誠実一筋、生涯のライバルであった[6]

1944年(昭和19年)、『必勝歌』の原案を担当。監督は辞退したため小杉勇が代わり、これが小杉の初監督作品となった[8]

1945年(昭和20年)、召集され、郷里の広島で入隊。8月6日、広島市への原子爆弾投下に遭う。便所に入っていて助かったが、原爆症を発症し、戦後は長い闘病生活を送った。4年の闘病生活後、一時回復したことから大映東京撮影所に入り、辰巳柳太郎の映画初出演が話題となった『どぶろくの辰』(健康に不安を抱えていたため水野洽が共同監督として参加)で復帰。以後は旧来の人道主義路線に戻り、1951年(昭和26年)、ホームドラマの傑作『雪割草』を撮る。

1952年(昭和27年)、自身が被爆者であることの思いを込め、原爆を扱った『長崎の歌は忘れじ』を発表。

その後、原爆症の症状再発により、さらに3年間を闘病生活に費やし再起[6]、1955年(昭和30年)、映画製作を再開した日活に復帰する。『女中ッ子』で左幸子の発刺とした演技を引き出し、1956年『乳母車』、1958年『陽のあたる坂道』、1959年『若い川の流れ』では太陽族映画やアクション映画とは違う石原裕次郎の新しい一面を引き出した。

1962年(昭和32年)、招かれて東映へ移籍、自身最後の仕事に打ち込む[6]。『親鸞』『ちいさこべ』など、殺陣のない時代劇映画で中村錦之助(初代)の内面性を大きく引き出し[9]有馬稲子が教師役の児童映画『はだかっ子』を発表。男優中心だった東映で会社から託された2人の若手女優、佐久間良子を『五番町夕霧楼』『湖の琴』で、三田佳子を『鮫』『冷飯とおさんとちゃん』でそれぞれ演技開眼させた[2][5]

1968年(昭和43年)、松竹で『スクラップ集団』を撮り終えてからは、各社のプロデューサーの度重なる出馬要請にも健康を理由に首を縦にふらず、第一線に返り咲くことはなかった[5]

1974年(昭和49年)10月17日死去。享年72。墓所は左京区西林寺。
人物・エピソードキネマ旬報』1960年1月臨時増刊号より

友情に厚く、初期の脚本・山本嘉次郎や撮影・伊佐山三郎など限られた仲間と深い繋がりを持った。山田洋次が映画作家を志すきっかけとなった映画として、奉天の小学校時代に見た田坂の『路傍の石』を挙げている。

田坂の旧友で、当時、松竹京都撮影所所長だったマキノ雅弘は、昭和20年8月6日に原爆に遭った田坂の無事の報を受けたが、さらに14日の日本降伏後、田坂が被爆症状が出て危ないとの知らせを受けた。そこでマキノは山口直(月丘千秋の夫)と助監督の隅田朝二に、田坂を連れ帰るよう頼んだ。16日に広島から帰還した田坂は、直撃は受けなかったものの後始末に追われてすっかり身体が衰弱していた。


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