田園都市_(企業)
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田園都市株式会社種類株式会社
本店所在地 日本
東京都目黒区洗足二丁目25番
設立1918年大正7年)9月2日
事業内容都市開発
代表者渋沢栄一
資本金500,000円
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田園都市株式会社(でんえんとしかぶしきがいしゃ)はかつて洗足田園都市(現在の目黒区洗足)にあった住宅地開発会社。宅地開発のみならず鉄道事業をふくむ諸般の設備整備も展開した。洗足と多摩川台(現在の田園調布)を開発したことでも名高い[1]。現在の東急東急不動産の母体企業である。

ここで記述する田園都市株式会社は、戦後に設立された東京都豊島区にある同名企業[2]との関連性はない。田園都市株式会社本社 (現在の東京都目黒区洗足二丁目25番)[3]
概要

田園都市株式会社は理想的な住宅地「田園都市」開発を目的に1918年に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた会社で、現在の東急東急電鉄東急不動産の始祖に当たる。1922年目黒区品川区にまたがる洗足田園都市(現在の洗足地域)、 翌年大田区世田谷区にまたがる多摩川台地区(現在の田園調布玉川田園調布)の分譲を開始し、またその地の足の便の確保のため子会社により鉄道事業を営んだ。1928年、分譲地の販売も終了し役割は終わったとし、その子会社であった目黒蒲田電鉄に吸収合併された[4]。しかし、その開発手法は後に東急(当時の東京急行電鉄)による田園都市線沿線の多摩田園都市開発に応用されることになる[5]
沿革と歴史田園都市株式会社を創設した渋沢栄一田園都市全図
田園都市株式会社が開発した区域の模式図。右から洗足地区、大岡山地区(東京工業大学キャンパスとなった)、多摩川台地区(後の田園調布地区)の3区画。
この3区画を貫いて走るのが目蒲線(現在の東急目黒線)で、左側(西)は多摩川である。

1915年(大正4年)2月、東京市長や司法大臣などを歴任した尾崎行雄の秘書を務めた畑弥右衛門が、尾崎の紹介で渋沢栄一を訪問して荏原郡開発を提案し、渋沢は中野武営に相談する。渋沢も中野も、欧米の都市を念頭に置いて田園郊外住宅地開発とそれにともなう鉄道など諸般設備の整備を構想する。1916年(大正5年)11月、田園都市株式会社創立委員会が開催され、渋沢が委員長となる。1918年(大正7年)1月には、田園都市株式会社設立趣意書を発表。

1918年(大正7年)9月2日、 田園都市株式会社が設立される[6]。資本金50万円。 発起人には渋沢栄一(相談役)、役員には中野武営(発起人代表)、服部金太郎、柿沼谷雄、緒明圭造、星野錫、竹田政智[7]の6人が、監査役には伊藤幹一、市原求の2人が名を連ね、社長に中野武営 、専務取締役に竹田政智が選出された[8]。ただし中野は翌10月に急逝。社長の席は空席のまま、竹田が代表取締役となり会社の運営にあたった[9][10]1919年(大正8年)8月25日 渋沢の四男渋沢秀雄が田園都市視察のため欧米11カ国訪問に横浜港から出発する[11]

田園都市株式会社はまず事業用地の買収を開始する。この時買収の対象としたのは洗足(現在の目黒区洗足二丁目、品川区小山七丁目)、大岡山、多摩川台(現在の田園調布[12]玉川田園調布)の3地区である。しかし、洗足地区は池上電気鉄道と用地買収が競合し土地価格が上昇したため、約5.5万坪(18万1千平米)を買収したところで一時中止し、多摩川台地区(当時の調布玉川)の買収に重点を移し、1920年(大正9年)5月までに同地区22万坪を買収し、1921年(大正10年)11月までには30万坪(約100万平米)まで買い進め、計約45万坪(約148万5千平米)の買収を完了した。うち大岡山地区は9.2万坪(約30万3千平米)を買収したが、現・東京工業大学用地となり、宅地開発はされなかった。別途、地主たちに代替用地として提供した2.9万坪(約9万5千平米)が買収され計約48万坪(約158万4千平米)となった[13]

また、洗足地区においては、第一期分譲地に続いて、田園都市株式会社による第二期分譲地および東洗足分譲地の約3,500坪(約1万1千平米)、目黒蒲田電鉄による北千束分譲地も提供され、合わせて574区画、約8.4万坪(約27万7千平米)の田園都市が形成された[14]。そして、多摩川台地区において田園都市株式会社により開発されたのは約30万坪(約100万平米)であった[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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