田名網敬一
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田名網敬一
誕生日 (1936-07-21) 1936年7月21日(87歳)
国籍 日本
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田名網 敬一(たなあみ けいいち、1936年7月21日 - )は、日本アーティストグラフィックデザイナーイラストレーター、映像作家。
人物・来歴

1936年東京の服地問屋の長男として生まれる。1941年に日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると、田名網の生家は危険に晒される。1942年4月18日、B29による東京への初空襲が始まると、田名網は京橋を離れ、目黒の権之助坂付近にあった祖父の家に居を移す。1945年、9歳の時に東京大空襲を経験する。この時脳裏に焼き付いた数々の光景は、田名網が後に描き出す作品の主要なモチーフを占める事になる。轟音を響かせるアメリカの爆撃機、それを探すサーチライト、爆撃機が投下する焼夷弾、火の海と化した街、逃げ惑う群衆、そして祖父の飼っていた畸形の金魚が爆撃の光に乱反射した水槽を泳ぐ姿である。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「食べたい盛り、遊びたい盛りの幼少年期を、戦争という得体の知れない怪物に追い回されていた私の見る夢には、恐怖や不安、怒りや諦めなどが渦巻いていたに違いない。そういえば空襲の夜、禿山の上から逃げ惑う群衆を眺めていたことがある。だが、ふと私は思うことがある。あれは現実に起こったことなのだろうか。私の記憶では夢と現実がゴッチャになって、曖昧なまま記録されているのである。」
(田名網敬一)

幼少期より絵を描くことが好きだった田名網は、中学生の頃に当時の代表的な漫画家、原一司のアトリエに出入りし漫画家を目指すようになる。しかし、原の突然の死により、以後漫画の草分け的分野であった絵物語作家の道を目指すようになり、やがてプロのアーティストになるべく武蔵野美術大学へ進学する。その才能は学生時代より広く知られ、在学2年生(1958年)の時にイラストレーション、デザインの権威団体の主催する展覧会(日宣美)で「特選」を受賞する。卒業後、一度は広告代理店に就職するも、個人への仕事のオファーが多すぎて1年足らずで退社。その後1960年代を通して、イラストレーター、グラフィックデザイナーとして多忙な日々を過ごす傍ら、戦後日本を象徴する芸術運動の1つであるネオ・ダダイズム・オルガナイザーズと行動を共にし、1960年代半ば以降当時アートとしては最も新しいメディアであった映像作品の制作にも没頭する。「1960年代、赤坂の草月会館では様々なジャンルを越境し横断するイベントが定期的に開かれていた。小野洋子のハプニングやナムジュン・パイクのビデオやアメリカの実験映画などが次々に登場した。そんなとき、「アニメーションフェスティバル」(1964年)が開催されるというニュースを聞いた。なんとしてもアニメーションを作りたかった私は、久里洋二の実験漫画工房に強引に頼み込み、『仮面のマリオネットたち』(35mm、8分)を制作した。その後も、『Good by Marilyn』(1971)、『Good by Elvis and UAS』(1971)、『Crayon Angel』(1975)、『Sweet Friday』(1975)と私のアニメーション制作は続いた。」
(田名網敬一)

 1967年、初めてのニューヨーク旅行を経験する。このとき、アメリカの消費社会の繁栄の渦の中にあって力強く輝くウォーホルの生の作品に触れた田名網は、デザイナー活動の中にアートの新たな可能性を直に感じる。「その頃のウォーホルは、商業美術家であるイラストレーターからアーティストに移行する過程の時期で、美術の世界に切り込んでいった彼の取った戦略を、生の場所で観察・体験したのです。そこで感じたことは、彼が取った戦略というのは、広告代理店の広告戦略そのものだったということです。つまり、作品のモチーフに時代のアイコンを使ったり、活動に映画、新聞、ロックバンドなどのメディアを複合させ、ウォーホルの存在=作品を美術マーケットに売り込んでいく、ショックを受けたと同時に、彼を自分にとってちょうど良いモデルケースとして捉えた。ウォーホルのようにやりたいことはファインアートやデザインといったひとつのメディアに限定せず、いろいろな方法でやっていこうと思った」
(田名網敬一)

サイケデリックカルチャーとポップアート全盛期の当時、田名網のポップでカラフルなイラスト、デザインワークは、国内外で高く評価され、1968年にAVANT-GARDE誌主催の「反戦ポスターコンテスト」 で入賞した作品「NO MORE WAR」や、伝説的バンド、モンキーズジェファーソン・エアプレインのジャケットワークなど、「サイケデリックアート」、「ポップアート」の日本への導入に重要な足跡を残す作品を手掛けている。


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