田口隆祐
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田口 隆祐
2018年
プロフィール
リングネーム田口 隆祐
マスクド・ホース
プロレスラー戦国炎舞
タグチ・ベイリー
本名田口 隆祐
ニックネームファンキー・ウェポン
アス・リート
オーマイ&ガーファンクル
ドロップキック・マスター
監督(タグチジャパン監督)
Mr.69
緑のカリスマ
変態おしりおじさん
身長180cm
体重91kg
誕生日 (1979-04-15) 1979年4月15日(45歳)
出身地宮城県岩沼市
所属新日本プロレス
スポーツ歴レスリング
サッカー
陸上
野球
トレーナー山本小鉄
小林邦昭
木戸修
エル・サムライ
デビュー2002年11月22日
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田口 隆祐(たぐち りゅうすけ、1979年4月15日 - )は、日本男性プロレスラー宮城県岩沼市出身。血液型O型。新日本プロレス所属。宮城県仙台第一高等学校東海大学卒業。
来歴
少年時代

生まれてから高校を卒業するまでは、宮城県岩沼市で育った。ただ、10歳の小学校4年生の時に1年間だけ青森市内に住んでおり、2019年の青森大会の試合後「青森市立筒井小学校に通ってました」と告白している[1]宮城県仙台第一高校サッカー部、東海大学レスリング部の出身[2]
2002年

新日本プロレスのスカウト部長の木村健悟にスカウトを受け、前年9月の入門テストに合格し、3月新日本に入寮。

11月22日、後楽園ホールにて矢野通を相手にプロレスデビュー[2]。その後、前座戦線で活躍し、かなり早い段階で頭角を現す。また、ドロップキックの空中姿勢に定評があったことから「ドロップキックマスター」という異名を付与された。
2003年

ジュニアヘビー級戦線で活動し、BEST OF THE SUPER Jr.(以下「BOSJ」)に初出場。
2004年

ヤングライオン杯、ヤングライオン闘魂トーナメントを制覇する[2]
2005年

2月、メキシコ・CMLLへ海外遠征に出発、同団体で元全日本プロレス奥村茂雄とツナミ・デル・オリエンテ(Tsunami del Oriente)を結成する。10月、緑のオーバーマスクをかぶり凱旋帰国した[2]
2006年

長期メキシコ遠征帰国後から、勝利後にリング上で自身のテーマ曲である「MASTER OF DROPKICK」に乗りながら、「タグダンス」と呼ばれる踊りを披露するようになった。

初公開となったのは、2006年1月28日後楽園ホールにて、ファンキー仕様の髪型を初披露した田口がタイガーマスクと組み、後藤洋央紀田中稔組と戦った試合で田口が後藤からピンフォール勝ちを収めた試合後に、多少中途半端ながら披露された(その直後に小バカにした態度で田中稔に真似されていた)。

2月19日、エル・サムライとのタッグで稔&後藤組の保持するIWGPジュニアタッグ王座に挑戦して、この試合で勝利を収め同王座の第16代王者組に輝いた[2]
2007年

3月、エル・サムライが新日本ジュニアの底上げを図るべく立ち上げた養成施設「サムライジム」の門下生第一号として入門[2]。師であるサムライからスパーリングを通じてテクニックを伝授された後、IWGPジュニアヘビー級王座を保持するに挑戦を表明。田中稔からは、「ベルトとサムライジムの看板を賭けたダブルタイトルマッチだ」と挑発され、4月13日にIWGPジュニア王座に初挑戦。最後はHEATクラッチに敗れ看板も奪われたものの、BOSJ開幕戦で稔から勝利を収め、さらに予選を1位通過するといった実績を残し、稔に再挑戦を要求。

7月6日、稔と再戦して最後はどどんで勝利を収め、自らの敗北によって奪われたサムライジムの看板を取り返すと共にIWGPジュニア王座初戴冠を果たした[2]
2008年

3月、NEW JAPAN CUPに初出場。ZERO1-MAX(現 : ZERO1)との対抗戦も経験した[2]
2009年

1月、モーターシティ・マシンガンズアレックス・シェリー & クリス・セイビン組)の手に渡り他団体流出を許してしまったIWGPジュニアタッグ王座を奪還すべく、プリンス・デヴィットとタッグチーム、『Apollo 55』を結成。2度の挑戦を経てジュニアタッグ王者となり、同年のG1 TAG LEAGUEでは、ヘビー級選手に混じって出場し、ジュニアタッグチームでありながら準優勝を果たす好成績を残した。その中でもゴールデンラヴァーズ飯伏幸太 & ケニー・オメガ組)とは幾度となく好勝負を展開。
2010年

10月11日、DESTRUCTION'10でApollo55 対 ゴールデンラヴァーズ のタイトルマッチが行われた。Apollo55は敗れたものの、ジュニアタッグとしては史上初となるプロレス大賞・年間最高試合賞を受賞する快挙を成し遂げた[2]
2011年

1月22日にマスカラ・ドラダから勝利を収めてCMLL世界ウェルター級王座を獲得[2]、1度の防衛に成功する。
2012年

6月10日のBEST OF THE SUPER Jr.優勝決定戦では、ロウ・キーから勝利を収めて初優勝を果たし[2] 、シングルプレーヤーとしての実力を見せつけた。
2013年

この頃の田口は、ジュニアタッグ戦線において、Apollo 55として常にトップを張り続け、同タッグとして合計4度に渡ってIWGPジュニアタッグ王者となり、通算13度の防衛を果たすなどマルチに活躍してきた。しかし、4月7日のINVASION ATTACKのジュニアタッグ王座戦後、デヴィットに背後から襲撃され、一方的にApollo 55解散を突きつけられた。2人はタッグパートナーから一転して対立関係へと発展した。さらに6月のBOSJ公式戦で腰を負傷し、「第三腰椎神経根引き抜き損傷の疑い」と診断され長期欠場に追い込まれた[3]
2014年

1月5日、半年ぶりにリングに上がり、復帰を発表した。自身を裏切り、BULLET CLUBを結成してヒールターンを果たしたデヴィットを標的とすることを宣言した。デヴィットとの抗争の末に、INVASION ATTACK 2014で決着戦と銘打たれたシングルマッチを行う。戦前の予想に反してクリーンファイトで挑んできたデヴィットに最後はどどん・ジ・エンドを決めて勝利。試合後に握手を交わして和解したが、翌日になってデヴィットは新日本を退団した。これに対して田口は、「もし次に目の前に現れたら、それはボクとデヴィットの第2章となる」と語り、一連の抗争に終止符を打った[4]

9月21日、DESTRUCTIONにてKUSHIDAを破り、約7年ぶりにIWGPジュニアヘビー王座に戴冠した。この試合前に「自分にベルトがあったら『もっとふざけられる権利』を手に入れる」と発言[5] していた田口は実際の試合後のコメントで、「オーマイ&ガーファンクル」といった謎のフレーズを連呼、第69代王者に戴冠したことから自身を「シックスナインチャンピオン」と称するなど自由奔放な発言を連発した。その後のコメントでも田口は下ネタを連想させる発言を繰り返すようになり、異質なキャラクターを確立させていった。
2015年

1月4日、レッスルキングダムにて、BULLET CLUB入りしたかつての好敵手ケニー・オメガに敗れてIWGPジュニア王座の3度目の防衛に失敗。同月に「NJPW PRESENTS CMLL FANTASTICA MANIA2014」ではツタンカーメンのマスク、コスチューム姿で試合を行った。
2016年

1月4日、東京・東京ドームで行われた「WRESTLE KINGDOM 10 in 東京ドーム」の第0試合1分時間差バトルロイヤル?ニュージャパンランボー?で第13番目に登場し、最後の2人に残るも、邪道にオーバー・ザ・トップロープで敗北[6]。同日の第4試合IWGP Jr.ヘビー級選手権試合では挑戦者のKUSHIDAのセコンドとしてバック・トゥ・ザ・フューチャーのドクの姿で登場し、KUSHIDAに1度負けた後再び王者に返り咲いたケニーのセコンドについていたヤング・バックスを蹴散らしてKUSHIDAの勝利に貢献した。[7]

6月3日、東京・後楽園ホールで行われた「BEST OF THE SUPER Jr.XXIII」第11戦の第7試合、田口はBUSHIと対戦し、毒霧からのMXで敗北した。試合後、「セイシをかけるだけで十分だよ、リングでは。こんなもん、顔にかけるために試合してるんじゃねぇんだ。初めから、顔にかけるつもりか?顔にかけられる気持ちも考えてほしいもんだ。こんな顔にいっぱいかけられるなんて。なんか酸っぱいの入ってるのかな?酸味が。酸っぱいよ。酸っぱいの顔にかけられた。」とコメントした。[8]

6月28日、東京・後楽園ホールで行われた「KIZUNA ROAD 2016」第3戦の第1試合、田口はデビッド・フィンレーと対戦し、どどんで勝利。試合後「若い子とやって、若いエキスを舐め尽くすことで、汁をね、タップリ『SUPER Jr.』で吸わしてもらったんで。なんか一つどころか、二つ上の男になったんじゃないですか。一皮むけて、なんか真珠まで埋めちゃったみたいな感じ。真珠?“パール田口”ですよ。真珠を入れて二つ上の男になったんで。ベルトとは全然違うところで、活躍していきたいと思います。「つけろ」って言われるまで、つけないでいきたいと思います。“ナマ田口”でいきます。ベルトの話ですよ」とコメントした。[9]
2017年

1月5日、東京・後楽園ホールで行われた「NEW YEAR DASH!!」にて中西学棚橋弘至とのタッグでロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン(LIJ)のBUSHIEVILSANADA組が持つNEVER無差別級6人タッグ王座に挑戦し勝利を収め、第10代王者に戴冠[10]。これを機に、田口を"監督"としたユニット「タグチジャパン」を結成し活動を開始する。後に同じくLIJとベルト争いをしたドラゴン・リーマイケル・エルガンらとも共闘した。

だが、2月11日の大阪・大阪府立体育会館で行われた「THE NEW BEGINNING in OSAKA」にて、LIJ(BUSHI、EVIL、SANADA)組に敗れ、NEVER無差別級6人タッグ王座から陥落した[11]。同大会のIWGPジュニアヘビー級王座戦で、王者であるLIJの高橋ヒロムがドラゴン・リーに勝利したことを受け、ヒロムに挑戦を表明した。田口はコメントで、「ヒロム、いや高橋ヒロム、すごい試合、感動したよ。こんなにセイシをかけて戦う姿に興奮して自然と足がリングに向かったよ」「すげえセイシかけたな。こんなにセイシかけて、オレ、戦えるかなって思ったけどさ、まだまだセイシかけて戦ってないなって思ったわけ。もっともっとセイシかけて戦いたいなと思ったわけ。このベルトとセイシをかけて試合してくれ」と挑発。また「返事を聞かせてほしいんだわ。五・七・五で」とヒロムに求めた(なお、高橋ヒロムはこの後バックステージにて「田口さん 取れるもんなら 取ってみろ」と見事五・七・五でコメントしている)。困惑したヒロムがベルトで殴りかかると巧みにかわして左足にオーマイ&ガーアンクルを決めた[12]

3月6日、東京・大田区総合体育館で行われた「旗揚げ記念日」興行にてヒロムの持つIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦するが、善戦するも敗れた[13]

4月4日、東京・後楽園ホールで行われた「Road to SAKURA GENESIS 2017」にてリコシェ、棚橋とのタッグでNEVER無差別級6人タッグ王座を懸けてLIJ(BUSHI、EVIL、SANADA)組とリマッチ。勝利し第12代王者となった[14]

5月3日、福岡・福岡国際センターで行われた「レスリングどんたく 2017」にて、前王者のLIJ組とNEVER無差別級6人タッグ王座のリマッチをするが、防衛に失敗した[15]

8月13日、東京・両国国技館で行われた「G1 CLIMAX 27」にて、リコシェとのタッグ、『ファンキー・フューチャー』でマット・ジャクソン&ニック・ジャクソン組の持つIWGPジュニアタッグ王座に挑戦。試合はリコシェのシューティングスタープレスにより15分13秒で勝利し第53代王者となる。試合後のインタビュー中、鈴木軍タイチディーヴァであるあべみほが現れ、タグチジャパン入会を希望することに。誓いのキスをすると見せかけた後に田口が目を閉じた瞬間、あべは田口に平手打ちした。その後、田口はタイチ金丸義信の襲撃を受けた。3人が去った後、恍惚の表情を浮かべた田口は壁によりかかって、「まだまだ踏みつけられ足りないんだよ! もっと踏みつけてもらいたいから、挑戦させてやるよ」とコメントした[16]


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