田口玄一
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田口 玄一
生誕 (1924-01-01)
1924年1月1日[1]
日本 新潟県十日町市[1]
死没 (2012-06-02) 2012年6月2日(88歳没)[1]
研究分野統計学実験計画法品質工学
研究機関海軍水路部天文部
厚生省衛生統計課
文部省統計数理研究所
青山学院大学
日本規格協会
出身校桐生高等工業学校[2]
博士課程
指導教員北川敏男(論文博士主査)
主な業績品質工学タグチメソッド
損失関数[注 1]、MTS法[注 2]
影響を
受けた人物増山元三郎茅野健
P.C.マハラノビス
主な受賞歴ロックウェルメダル
シューハートメダル
藍綬褒章
米国自動車殿堂[3]
プロジェクト:人物伝
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田口 玄一(たぐち げんいち、1924年1月1日 - 2012年6月2日[1])は、日本の工学者品質工学タグチメソッド)の創始者[4]

タグチメソッドは1980年代のアメリカ合衆国の技術停滞打破に大きく貢献した。これにより「アメリカを蘇らせた男」と呼ばれ[5]、日本人として3人目のアメリカの自動車殿堂入りを果たした[2][3]。また、日本でも多くの支持者によって品質工学会が設置されており、2年間で200事例に適用し、100億円以上の効果があった企業もあると言われている[6]

青山学院大学教授日本規格協会参与、品質工学フォーラム会長、株式会社オーケン社長を歴任。品質工学会名誉会長理学博士九州大学)。
業績・評価

田口は開発・設計工程に品質管理手法を取り入れるタグチメソッドを提唱し、トヨタ自動車[2]日産自動車[2]デンソー[2]フォード・モーター[7]などを指導した。1980年代前半までにアメリカで高い評価を受けた[7]

田口は直交表から線点図という概念を作り、一つの直交表から作られる線点図の作成と数え上げを証明した。統計学のように「ばらつき」を「偶然誤差」として理論立てることに真っ向から反対し、「ばらつき」を「必然誤差」としてロバストネスを設計する、そのための方法を打ち立ててきた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}田口は、世界の統計学者たちと絶えず論争をしてきたにも関わらず、統計学出身の学者の集まり (ASQ) からも評価された[要出典]。本当の意味でばらつきを実学に活かした人である[要出典]。

統計学者との有名な論争を以下に引用する。統計学の大前提は、誤差分布を定義し、その分布に対する対応を考える方法である。田口が出した有名な質問に、「誤差に分布が仮定できるならば、時計の誤差の分布はどうなるのか?」[8]という問いがある。統計学者たちは、返答できなかった。時々刻々と値が変化する中で、分布を定義できないのである。

統計学では平均と分散という2つのパラメータで分布を定義する。田口の方法は、平均ではなく理想の値を定義し、理想との差をばらつきとする。理想との差をばらつきの測度に用いるので、分布を定義する必要はない。

田口の方法によれば、分布を定義せずともばらつきに対して最小化する設計解は見出せる。両者の違いは、ガウス最小二乗法における4つの仮定のうち、正規性の仮定は最も弱い条件であることと似ている。

田口の没後1周年を前にして、2013年5月13日に「田口玄一博士一周忌追悼シンポジウム」が開催された[9]。応用統計学会の「統計科学からみたタグチメソッドの現在・過去・未来」(仮)の特集号の発行に向けた取り組みとして位置付けられ、長男の田口伸らが講演した[10]
教育

青山学院大学では、講義として統計解析、実験計画法、品質管理、経営数学を担当し、経営工学科で研究室を持っていた。学生との間に垣根を作らないことを重視し、研究室やゼミ生を年1回はそれぞれ自宅に招待し、食事会を催していた[11]

また、講義では学生自らが実践できるように留意しており、統計解析の講義では官能評価や身近なものの実験・評価を題材に、自由なテーマに基づく調査レポートを課していた。官能評価[注 3]では『喫煙者と非喫煙者におけるビール銘柄識別能力の比較』『年齢性別の違いによる味覚の敏感さの測定』『和音の識別能力の調査』等が報告され、測定実験では『時報による時計の機能の評価法』『温度によるゴルフボールの飛距離の違いの実験』等が報告された[12]。学生の調査事例の代表的なものは『実験計画法第三版』に掲載されている。
略歴

1924年1月1日 - 新潟県生まれ[注 4]

1942年 - 桐生高等工業学校紡織別科卒業[2]

1942年 - 海軍水路部天文部

1946年 - 厚生省衛生統計課

1948年 - 文部省統計数理研究所

1950年 - 電電公社電気通信研究所(西堀特別研究室に配属)

1954年 - インド統計学研究所客員教授

1962年1月 - プリンストン大学大学院交換教授(8月帰国)

1962年3月 - 理学博士九州大学

1962年10月 - 電電公社退職
1965年からの講義準備をしつつ、日本規格協会、中部品質管理協会で活動。

1965年4月 - 青山学院大学理工学部教授(統計学、経営工学科担当)[14]

1980年 - サバティカル休暇で渡米、スタンフォード研究所、ゼロックス社、ベル研究所を訪問[15]

1981年 - ベル研究所、ゼロックス社を再訪[16]

1982年 - 日本規格協会参与


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