田口壮
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田口 壮オリックス・バファローズ 外野守備・走塁コーチ #81
2016年3月20日、阪神鳴尾浜球場にて
(手前は阪神掛布雅之二軍監督(当時))
基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県西宮市
生年月日 (1969-07-02) 1969年7月2日(54歳)
身長
体重177 cm
77 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手二塁手遊撃手
プロ入り1991年 ドラフト1位
初出場NPB / 1992年4月4日
MLB / 2002年6月10日
最終出場NPB / 2011年8月27日
MLB / 2009年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


兵庫県立西宮北高等学校

関西学院大学

オリックス・ブルーウェーブ (1992 - 2001)

セントルイス・カージナルス (2002 - 2007)

フィラデルフィア・フィリーズ (2008)

シカゴ・カブス (2009)

オリックス・バファローズ (2010 - 2011)

監督・コーチ歴


オリックス・バファローズ (2016 - )

国際大会
代表チーム 日本
五輪2000年
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田口 壮(たぐち そう、1969年7月2日 - )は、福岡県生まれ、兵庫県西宮市育ちの元プロ野球選手外野手内野手)。妻は、元TBSアナウンサーの香川恵美子。息子もいる[1]

セントルイス・カージナルスフィラデルフィア・フィリーズ時代にワールドシリーズ制覇を2回経験した。2019年からオリックス・バファローズの一軍野手総合兼打撃コーチ、2021年から外野守備走塁コーチを務めている。
経歴
プロ入り前

福岡県で出生。クラレに勤務していた実父・允之(よしゆき)の転勤によって、2歳から8歳まで千葉県、8歳から小学校5年生夏までを岡山県岡山市、中学校時代から大学時代までを兵庫県西宮市で過ごした。

允之はかつて、社会人野球チームのクラレ岡山硬式野球部1973年廃部)の外野手として活躍していた[2]。その影響で、2歳上の兄(捕手)と共に3歳から野球を始めると、岡山市立平福小学校では当時住んでいた同社社宅内のソフトボールチームに所属(遊撃手)、優勝大会多数。西宮市立平木中学校兵庫県立西宮北高等学校を経て、関西学院大学へ進学した。

西宮北高校では、地元に近い甲子園の土を踏めないまま卒業。関西学院大学で硬式野球部に所属すると、同部が加盟する関西学生野球連盟の公式戦で、101試合出場、376打数123安打、打率.327、10本塁打、46打点という通算記録を残した。その間には、首位打者1回、最優秀選手1回、ベストナイン4回をそれぞれ受賞。通算123安打は、2019年11月現在でも(前身の団体を含めて)連盟史上最多安打記録である[3]

ちなみに守備位置は、9歳で当時の地元・岡山市の野球チームに入ってから、オリックスでの入団2年目まで遊撃手一筋だったという[4]

1991年ドラフト会議で、オリックス・ブルーウェーブ日本ハムファイターズから1位指名を受け、抽選の結果オリックスが交渉権を獲得し契約金1億円、年俸1200万円(金額は推定)で入団合意した[5]。背番号は、同年オフに二軍監督を退任・退団した福本豊が長年着用していた7を提示されたが、「あげようと言われましたが、あの福本さんの番号だから恐れ多い」と辞退し[6]、アマチュア時代から着用し、熊野輝光の移籍に伴い空き番となっていた6で落ち着いた。ドラフトに際しては、平田勝男の後継遊撃手を求めていた阪神タイガースが指名・獲得を望んでいたという。これに対して田口は記者会見で「阪神に行きたくない10カ条」なる文書を読み上げる(後に撤回)。これは阪神と疎遠だった関西学院大学野球部及び学校当局と、オリックスの同校OBの担当スカウトが、田口を阪神に行かせたくないために入れ知恵して言わせたものだとされているが、学校当局のこの行為に関与していなかった当時の野球部監督からは叱責を受け、田口も「野球以外のことで怒られたのは初めてだった」と語っている(監督の叱責については当時の「週刊ベースボール」[要文献特定詳細情報]に記載)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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