田口卯吉
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田口鼎軒 /『明治人物評論』より 田口鼎軒 壮年期

田口 卯吉(たぐち うきち、安政2年4月29日1855年6月12日〉 - 明治38年〈1905年4月13日[1])は、日本経済学者歴史家実業家政治家ジャーナリスト東京府会議員、衆議院議員法学博士。名は鉉(みつ)。卯吉は通称[2]。字は子玉。号は鼎軒[3]
生涯
生い立ちと青年時代

安政2年(1855年)、江戸目白台の徒士屋敷(現在は東京都文京区目白台日本女子大学敷地内)に生まれる。幕臣の家庭。父は西山家から養子に入った樫郎、母は町子。田口家は初代右衛門が将軍・徳川吉宗の従士として使えて以来の家系で、のちに零落し、天保12年(1841年)に佐藤一斎が株を買い、一斎の長男である慎左衛門が継ぐ。慎左衛門の娘町子は井上家に嫁いだ後に後家となり、樫郎を婿に迎えた。

安政6年(1859年)に父の樫郎、翌年には長兄の貫一郎が相次いで死去し、幼くして家督を相続。慶応2年(1866年)に元服して従士見習いとなるが、12月に幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属される。また、昌平坂学問所でも学んでいる。同年には異父姉の鐙子が但馬出石藩の儒者・木村熊二に嫁ぎ、田口家も下谷の木村家と同居する。近所の徒目付乙骨太郎乙とも親交があった。明治維新による幕府瓦解において義兄の熊二は彰義隊を支援するなど抵抗し、田口家は横浜へ逃れ商売を行う。卯吉は乙骨の勧めで旧幕臣の経営する骨董屋で働き、アメリカ長老派の宣教師に英語を学ぶ。

明治元年(1868年)に徳川家の静岡移封に伴い沼津へ移住し、沼津兵学校で英語教師をしていた乙骨のもとへ寄宿する。兵学校で学び、中根淑の漢学塾でも学ぶ。兵学校時代に島田三郎と知り合い、中根塾では伊庭想太郎らと交友している。

明治2年(1869年)に静岡藩の生育方に付くが同年9月に廃止され、義兄の熊二や父の実家西山家の周旋で沼津勤番組に配属される。明治3年(1870年)9月に第六期資業生試験に合格し、12月には静岡病院での医学修行を拝命する。また、義兄の熊二はこのころ海外渡航し、卯吉は家長の立場となる。
上京と大蔵省時代

明治4年(1871年廃藩置県で静岡藩が解消され主な人材が東京へ移ると、卯吉も乙骨とともに上京する。島田とともに薬屋を志し、開校予定の科学専門学校に応募するが開校は中止となり、大学予備門に入学するがほどなく退学している。

尺振八の私立共立学舎に入学し、翌明治5年(1872年)に大蔵大輔井上馨渋沢栄一が人材育成機関として構想した大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となる。翻訳局では経済学や西洋文明史が教授され、このころにギゾーなどの影響を受け医科から転向したといわれ、またキリスト教にも接している。だが、明治6年(1873年)に井上や渋沢が辞し、続いて大蔵卿に大隈重信が就くと組織改編で翻訳局は縮小され、翌年には廃止となり卯吉は大蔵省紙幣寮に異動となる。

明治9年(1876年)には旧幕臣の娘・千代と結婚。
ジャーナリスト・実業家

著述活動をはじめ、明治10年(1877年)に自費出版で『日本開化小史』を刊行開始。翌明治11年(1878年)には『自由交易日本経済経済論』を出版。同年には沼間守一らの嚶鳴社設立に島田とともに発起人として参加し、演説活動も行っている。


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