田原総一朗
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たはら そういちろう田原 総一朗
内閣広報室より公表された肖像
プロフィール
出身地 日本 滋賀県彦根市
生年月日 (1934-04-15) 1934年4月15日(90歳)[1]
最終学歴早稲田大学第一文学部史学科卒業
職歴日本交通公社(現:JTB[注 1]
岩波映画製作所[注 2]
東京12チャンネル[注 3]
→フリー[2]
配偶者死別
出演番組・活動
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田原 総一朗(たはら そういちろう、1934年昭和9年〉4月15日 - )は、日本ジャーナリスト評論家ニュースキャスター。元ドリームインキュベータ社外取締役[3]。元東京12チャンネル(現:テレビ東京ディレクター、元映画監督日本国際フォーラム参与[4]、政策委員[5]。公益財団法人日印協会顧問[6]、一般社団法人外国人雇用協議会顧問[7]NPO法人万年野党会長[8]。芸能事務所のブルーミングエージェンシーと業務協力。

滋賀県彦根市出身。血液型はB型。田原節子は妻、その妹に古賀さと子がいる[9]
経歴・人物

近江商人末裔第二次世界大戦中は人並みな軍国少年で、「海軍兵学校を経て海軍に入り、特攻隊員として戦闘機に乗り敵の軍艦にぶつかって死ぬ」のがだった。敗戦当時、それまで習ってきた価値観が180度ひっくり返ったことに対して、田原は「そうか、世の中に絶対なんてないんだ。偉い人の言うことは信用できない」と感じたという。

1941年、彦根市立城東国民学校(現:彦根市立城東小学校)に入学。

1943年、学区整理により彦根市立佐和山国民学校(現:彦根市立佐和山小学校)に転校。

1947年、学制改革により新設された彦根市立東中学校に入学(1950年に卒業)。

1953年滋賀県立彦根東高等学校を卒業。作家を志して上京し日本交通公社(現:JTB)で働きながら早稲田大学第二文学部(夜学)に在籍。文学賞に何度か応募したが箸にも棒にもかからず、さらに同人誌の先輩に才能がないと二、三度「宣告」を受けたことで意気消沈していたところで同世代の石原慎太郎大江健三郎の作品を読み、田原も「これはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念する。志望をジャーナリストに切り替え、3年間でほとんど通っていなかった第二文学部を辞めた。

1956年早稲田大学第一文学部史学科に再入学し、1960年に卒業。

ジャーナリスト志望だったためNHK朝日新聞、日本教育テレビ(現:テレビ朝日)などのマスコミを手当たり次第受けたがどれにも受からず、11社目にして初めて合格した岩波映画製作所に入社。カメラマン助手を務める。

幼少期より相撲が大好きで、非常に強かった。
東京12チャンネルディレクター時代

1964年、東京12チャンネル(現:テレビ東京)開局とともに入社。ディレクターとして、『ドキュメンタリー青春』(東京ガス1社提供の番組で、田原を含め3人が交代で演出していた)、『ドキュメンタリーナウ!』などの番組を手がける。田原がTVドキュメンタリーを撮っていた時代は、NHKの吉田直哉らの『日本の素顔』、日本テレビ牛山純一の『ノンフィクション劇場』、村木良彦、宝宮正章らのTBSのドキュメンタリー番組などが主流で、当時開局したばかりの「東京12チャンネル」はインディーズ的存在であった。田原はそれを逆手にとって「過激な題材」を元に「やらせ的な演出をして、その結果としておきる、スタッフ、出演者、関係者に生じる葛藤までを、全て撮影する」手法をとり、話題を呼んだ[注 4]。当時、田原が親交があった清水邦夫内田栄一に「筋書き」を書いてもらい、出演者にそのとおり「行動」してもらう場合もあった。この田原の「確信犯的」な手法は映画監督の原一男に影響を与えている。

ジャズピアニストの山下洋輔が「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったため、田原はバリケード封鎖されていた大隈講堂からピアノを持ち出して山下に弾かせることを考えた[10]中核派から分裂した組織「反戦連合」のメンバーたちが運びだし、そのピアノを山下が演奏した。後の作家、高橋三千綱中上健次北方謙三山岳ベース事件で殺された山崎順もピアノを運んだという。また、このイベントは立松和平のデビュー作『今も時だ』という短編小説も産み出している[11]

著書『私たちの愛』によると、田原は以下のような過激なドキュメンタリーを撮影していた。

ニュージャージーのマフィアが経営する店で「この玉突き台の上でうちの売春婦とやったら取材を受ける」と言われ、30人に囲まれて黒人娼婦相手に本番ショーを行った。

俳優の高橋英二[注 5]ガン治療手術から死去に至るまでの撮影では、病室である国立がんセンターに取材拒否されたため、内緒で撮影。さらに右腕の切断手術が必要になり、手術の場面を撮影[注 6]。手術直後、高橋は、自分の女性マネージャーが好きなのでセックスしたいと言い出し、車に連れ込んだが女性が抵抗して果たせなかった。そのシーンもそのまま撮影し、また田原の望むまま国会議事堂散弾銃を発砲するシーンも撮影した。高橋はスターになるが、間もなく死去した[注 7]。遺体を棺桶に入れ、霊柩車で運ばれるまで撮影した。

全共闘くずれのヒッピーたちが、全員全裸で結婚式をやることになった。余興として花嫁が列席者全員とセックスをする。スタッフも全裸で撮影していたが、花嫁がスタッフともセックスしたいと言い出したため、田原は自ら彼女とセックスし、そのシーンを撮影させた。この「日本の花嫁」は、ゴールデンタイムで放映された[注 8]。レポーター役の武田美由紀(当時・原一男の同棲相手)と原一男と、二人の間に生まれた子ども(当時、生後3ヶ月)の3人が、全国各地の若者のカップルを訪ね歩く番組であった。

「『わたしたちは……』?カルメン・マキの体験学入門」という番組で、カルメン・マキが日記(小説的日記)で、「わたしたちは三畳の部屋に住んでいた」と書いていた。だが、実際はカルメン・マキは母親と一緒に住んでいた。そのため、カルメン・マキと同じく「天井桟敷」にいた支那虎という男と、アパートを借りて同棲させた。


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