田丸藩
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田丸藩(たまるはん)は、伊勢国に存在した。居城は田丸城(現在の三重県度会郡玉城町田丸字城山四一六)[1]

田丸藩田丸領の村数は、天保年間では247村、幕末には250村となっており、そのうち田丸領分は72村143枝郷17所小谷である。宮川右岸の佐八村(そうちむら)・大倉村・上野村・神薗村・円座村も田丸領に含まれていた。
概要
稲葉家
稲葉道通 (慶長5年(1600年) - 慶長12年(1607年))

稲葉紀通 (慶長12年(1607年) - 元和2年(1616年))

久野家

紀伊和歌山藩御附家老は次の4家である。

紀伊田辺城主(37000石) 安藤家

紀伊新宮城主(35000石) 水野家

紀伊貴志城主(16300石) 三浦家

伊勢田丸城主(1万石) 久野家

久野宗成は「元和五年頼宣公国替之節、台徳院様(徳川秀忠)より御附人仰付けられ勢州田丸城仰付けられ候」と田丸城入城の記録がある。御附家老は、幕府での処遇は大名に準じて将軍の拝謁をも特に許されている。田丸城主の久野家は伊勢神宮への「神馬」奉納を寛永20年(1695年)から文久元年(1861年)まで計14回、内宮に行っている。また、伊勢神宮の記録も久野家を「田丸城主」と記しており、「久野田丸藩」が元和5年より明治維新まで存続したことは、以上幕府の諸記録、伊勢神宮年表からも明らかにされている。
歴代領主
久野宗成 (慶長14年 - 寛永2年)

久野宗晴 (寛永3年 - 承応2年)

久野宗俊 (承応3年 - 宝永3年)

久野俊正 (宝永3年 - 享保11年)

久野俊純 (享保11年 - 安永1年)

久野輝純 (安永2年 - 文化7年)

久野昌純 (文化8年 - 文政6年)

久野純固 (文政6年 - 明治2年)

参考文献

「田丸郷土誌」池山始三

玉城町史」金子延夫

脚注^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(376ページ)

関連項目

山田奉行










大政奉還から廃藩置県までの間に存在した
慶応3年(1867年)旧暦10月 - 明治4年(1871年)旧暦7月
北海道地方

松前藩(館藩)

東北地方

黒石藩

弘前藩

八戸藩

●○盛岡藩(白石藩 → 盛岡藩)

盛岡新田藩(七戸藩

一関藩

久保田藩(秋田藩)

秋田新田藩(岩崎藩

亀田藩

本荘藩

矢島藩

出羽松山藩(松嶺藩)

仙台藩

鶴岡藩(大泉藩)

新庄藩

長瀞藩大網藩龍ヶ崎藩

天童藩

山形藩(朝日山藩)

上山藩

米沢藩

米沢新田藩(米沢藩)

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