田丸美寿々
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たまる みすず田丸 美寿々
プロフィール
出身地
日本 広島県安芸高田市
生年月日 (1952-07-01) 1952年7月1日(71歳)
血液型A型
最終学歴東京外国語大学外国語学部英米語学科
所属事務所フリー
職歴元フジテレビアナウンサー、テレビ朝日TBSテレビ専属契約アナウンサー
活動期間1975年 -
ジャンル報道・ワイドショー
出演番組・活動
出演経歴『FNNニュースレポート6:30
ザ・スクープ
朝まで生テレビ!
報道特集』など
その他日本ニュース時事能力検定協会理事
早稲田大学大学院政治学研究科非常勤講師
備考
フジテレビ入社から1981年3月までは報道局解説放送室付リポーターで、契約社員扱い。
1986年から1994年テレビ朝日、1994年から2010年TBSとの専属契約。
1983年4月から1991年2月までの活動名義は美里 美寿々。アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

田丸 美寿々(たまる みすず、1952年(昭和27年)7月1日 - )は、日本ニュースキャスター、テレビ・アナウンサーである。日本ニュース時事能力検定協会理事、早稲田大学大学院政治学研究科非常勤講師[出典 1]。身長163cm[3]

フジテレビ勤務を経て、1983年からはフリーとして活動している。
人物

広島県高田郡八千代町(現・安芸高田市)出身[出典 2]埼玉県立川越女子高等学校[7]東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業(1975年)[出典 3]

女性報道キャスターの草分け」[出典 4][注 1]、またフジテレビアナウンサーを経てフリーに転身して成功[16]、「女性フリーアナウンサーの草分け」でもあり[17]、同時に、略奪結婚で話題となって「不倫女子アナの草分け」ともいわれる[出典 5]。また、頼近美津子らとともに、女性アナウンサーのタレント化といわれる「女子アナ[20]、「美人女子アナ」といわれる存在の先駆けでもあった[出典 6][注 2]

著書、翻訳多数[11]
生い立ち

祖父は若い時、一旗上げようとアメリカ合衆国に渡り貿易商をしていた[6]。父親はアメリカで生まれ、帰国後高校教師、母親も小学校教員であったが、美寿々が生後8ヶ月の時、父は職を辞し単身英語の勉強を目的にアメリカに留学[6]。父親はサンノゼ州立大学卒業後、サンフランシスコで邦人向けの新聞記者職を得た[6]。それに伴い美寿々は母親と共に渡米、5歳からの5年間をカリフォルニア州で過ごす[出典 7]。アメリカではシスコの急坂をローラースケートで疾走し「ローラースケートのジュディ」と異名をとるお転婆娘だったという[12]。父親がアメリカ生まれの日系二世というのも頼近との共通点である[出典 8]。頼近とはライバル視された時期もあったが、大学の先輩後輩の間柄で頼近が田丸を慕っていた[出典 9]

小学校4年の時、父親が日本のNHK国際放送に就職したため帰国し[6]、初めは東京都小金井市[出典 10]、中学校から埼玉県草加市[6]、以降はフジテレビ在籍中まで所沢市に居住した[出典 11]。これは昭和30年代後半のことであり、いわゆる帰国子女のはしりだったともいえる[26]。アメリカでも日本語を勉強していたが、学校では広島弁を笑われて苛められ、高熱が続いて登校拒否にもなった[6]。自分が少し解放されたのは大学に入ってからという[6]
フジテレビアナウンサー

大学卒業後は海外進出企業に就職して[7]、海外に駐在するのが夢で[7]三井物産など数社から内定をもらっていたものの[出典 12]、持ち前の好奇心から学内の掲示板を見て、興味本位から親に内緒でフジテレビへも応募[出典 13]。当時はまだ「男女雇用機会均等法」もなく、入社試験で、女子学生に聞く質問と言えば「お茶くみはやりますか」といった内容ばかりだったが[11]、フジテレビの面接では、とても手応えのある質問をしてもらい、真剣に自分の話を聞いてくれたことに感激した[11]。こうして当時低迷期にあった同局の就職試験に合格し[出典 14]1975年に報道局解説放送室付リポーター[注 3]として入職した[1]。2000人の受験者で大卒の採用は3名だった[6]

当時のフジテレビでは、正社員以外のアナウンサーをリポーター(記者)と呼んでいたが、田丸はこのリポーターとしての入職で、身分は一介の契約社員だった[15][注 4]。同期入局には、後の同局アナウンス室長になった堺正幸や、報道局解説委員の和田圭フリーアナウンサーになった酒井ゆきえらがいた。

フジテレビに入社した女子アナの最初の仕事はお茶汲み業務で、女子アナは男性社員一人一人の珈琲にクリームひとつ、砂糖を2つとかのお茶の好みを全部覚えなければいけなかった[27]。田丸は「そんなの一覧表にしとけばいいじゃないですか」と言ってのけた[27]

「重要なニュースは男が読まなければ信頼されない」「女の声でニュースを読んだって信憑性がない」「女のくせにニュースをやりたいのは生意気だ」などと思われていた時代[出典 15]、ニュースをやっている人はみんな、ここは男の世界だと自負しており[1]、女が入るということに、相撲の土俵に女が上がるぐらいに拒否反応など嫌悪感を示す人もいた[1]。女性アナウンサーの出番は、街の話題やお知らせなど、業界で言う「暇ネタ」とか「ヤワネタ」の担当、天気予報、番組司会者のアシスタントなどだった[出典 16]。当時は女性アナウンサーは勿論、女性記者、カメラマン、ディレクターなど、女性そのものの姿が報道の現場になかったという[1]。当然、ニュースを取材したり、ニュースに近い距離で関わる女性はいなかった[1]。当時はそれが普通で、田丸本人もアナウンサーを長くやるとは思わず、それを差別とも思わなかったと話している[6]。このような古い風習を打ち破ったのが田丸だった[14]。1986年の「男女雇用機会均等法」の改正施行に合わせて女性たちもどんどん職場に進出していき、社会が女性を無視できなくなった[1]。「ちょうど女性に報道現場の門戸が開かれる過渡期に入社したんですね。もっと前だったらそんな重い扉はとうてい開かないと思って辞めていたかもしれないし、もっと後だったら、すごい先輩たちがたくさんいて、私なんか入り込める余地がなかなかなかったかもしれません。70年代から80年代はちょうど女性の時代といわれ、報道に限らず、いろんな分野で女性がかかわっていくところが広がっていって、毎日がすごく新鮮でした。今日できなかったことが明日できる、今日会えなかった人に明日会える、今日行けなかった現場に明日行ける…とか。日々開けていく感じで楽しかったです」などと述べている[1]。入社時、「報道をやりたい」と当時の鹿内信隆会長に直訴すると半年間、お茶くみやコピーとりばかりの閑職に追いやられた[出典 17]。同期の酒井は、『ママとあそぼう!ピンポンパン』の担当となっていたが[出典 18]、田丸にようやく決まったのが『FNNニュース』の天気予報だった。入局2年目の1976年にはロッキード事件が発生したが、田丸は天気予報中に自由民主党の内部抗争の話題を引き合いに出し、政府筋から猛抗議を受けることになった。

その後、天気予報や『3時のあなた』のアシスタントを1年半務めた田丸は1978年10月、『FNNニュースレポート6:30』へ先輩の逸見政孝と共にメインキャスターとして抜擢された[出典 19]。これはフジが報道を強化するという方針によるもので[12]、日本のテレビ史上初めて女子アナをメインに起用したケースだった[15]。「逸見がとにかく現場に行って生の声を伝えようとしたので、田丸も時に強引な突撃取材を行う[出典 20]デカのように一晩中張り込んだりもした[1]。「女だって粘るじゃん、女だって現場に行ってやれるじゃん」と少しずつ思ってもらえるようになったという[1]。そのうち、記者でもカメラの世界でもガッツのある女性が少しずつ出てきて、やらせてみたらとなってきた[1]。「男のように考え、レディーのように振る舞い、犬のように働け」というアメリカキャリアウーマンスローガンが好きで、私の仲間たち、友達といつもこの言葉を繰り返しながら、頑張っていたという[1]。最初の扱われ方は確かに酷く、今でいえばセクハラもいいところの職場だったが、それが少しずつ変わっていった[1]。80年代は少しずつ女性の関わる範囲も広がり、女性が活躍する場が広がってきて、どんどんやっていく仕事の質も上がってきて、すごくワクワクした時代でした」などと述べている[1]。当時はまだアナウンサーが取材することが珍しい時代で[6]、やりすぎて自民党警視庁からお叱りを受けることもあったが[15]、その美貌は入社時から評判で、そんな彼女が現場で体当たりリポートする姿はたちまち評判になり、一躍、時代の寵児となった[出典 21]


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