田中館愛橘
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たなかだて あいきつ田中舘 愛橘

生誕1856年10月16日
陸奥国二戸郡福岡村横丁[1]
死没 (1952-05-21) 1952年5月21日(95歳没)
東京都世田谷区経堂[1]
国籍 日本
研究分野物理学
研究機関旧東京大学グラスゴー大学ベルリン大学、帝国大学理科大学、東京帝国大学航空研究所[1]
主な業績根尾谷断層の発見、日本のメートル法化の促進、東京大学航空研究所の創設、日本式ローマ字の考案
プロジェクト:人物伝
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田中舘 愛橘(たなかだて あいきつ、安政3年9月18日[2]1856年10月16日) - 昭和27年(1952年5月21日[2])は、日本地球物理学者東京帝国大学名誉教授帝国学士院会員。文化勲章受章者。
来歴
生い立ち

安政3年、陸奥国二戸郡福岡(現・岩手県二戸市)の南部藩士の父・稲蔵(とうぞう)と呑香稲荷神社の娘である母・喜勢(きせ・旧姓 小保内)の長男として生まれた[1][3][4]。田中舘家は父祖から藩の兵法師範を勤めていた家系で、愛橘の曾祖母は「南部赤穂浪士」ともてはやされた相馬大作(下斗米秀之進)の実姉にあたる[3]文久2年(1862年)、6歳の時に母・喜勢が病没、愛橘は泣きしきって過ごした[3][5]。9歳の頃、下斗米軍七の武芸「実用流」に入門、翌年に福岡内に郷学校の令斉場が開校されるとそこで文武を修め、また、私学校の会輔社で学んだ。この頃の愛橘はわんぱくなガキ大将であったという[1][6]明治維新で両校が廃止されると、明治2年(1869年)に心ならずも盛岡に移り、南部藩の藩校作人館の修文所に通い和漢の書を修めた。修文所の同窓には原敬佐藤昌介が、後輩には新渡戸稲造がいた[1][2][3][7]
上京.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}英語教師フェントンとともに(明治10年頃)

明治5年(1872年)、帰農していた父・稲蔵は愛橘と弟の甲子郎[註 1]の教育の為、土地や家などを売り払い一家を引き連れて東京三田へ移住する。移動は徒歩や船での行程で、1か月半ほどを費やしての上京となった[1][2][3][8]。同年9月、愛橘は慶應義塾に入学して英語を学んだ。翌明治6年(1873年)3月に福澤諭吉が義塾の学科を本来の学問を学ぶ「正則」と間に合わせの学問を学ぶ「変則」に分け、慶應義塾の正則は高額な月謝となった。愛橘は正則を選択するが、月謝3円は稲蔵にとって過大な負担となり、愛橘は9か月学んだだけで退学することとなった[8]。愛橘は次の進路を官費入学が可能な工部大学校とした時期もあったが、「物を作る為の学問はくだらない」と考えを改めた[8]。思案の末、安価な月謝の東京開成学校への予備教育課程として位置づけられた東京英語学校に進んだ。同校では肥田昭作から理学思想を教授され、このことが後年の理学を志す契機となったという。また、英国人英語教師フェントン(英語版)と行動を共にした[8]。明治9年(1876年)9月に官立東京開成学校予科3級生へと進む[1][8]。ここでは山川健次郎から物理学を学んでいる[1]。愛橘はいまだ政治に関心を持ち進路を悩んでいたが、山川は「日本で遅れている理学の方を勉強せよ」と諭した[2]
東京大学と留学

明治11年(1878年)9月、前年に東京開成学校が改編され、新たに発足したばかりの東京大学理学部本科(のち帝国大学理科大学)に入学した[1][9][10]。在学中は主任教授となった山川から引き続き物理学を学び、菊池大麓からは数学を学んだ。また、ユーイングからは数学、天文学、物理学、物理学実験、地磁気の観測を、メンデンホールからは力学熱力学を学んだ。これらの恩師との出会いは愛橘に多大な影響を与えた[2][10]。明治12年(1879年)にメンデンホールとユーイングによってエジソンフォノグラフが日本に紹介された際には、その試作を行い音響や振動の解析を試みている[11][12]。明治13年(1880年)にはメンデンホールによる東京と富士山で実施された重力測定に従事した[1][10]


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