田中 頼三
田中 頼三
生誕1892年4月27日
日本 山口県嘉川村
死没 (1969-07-09) 1969年7月9日(77歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1913年 - 1945年
最終階級 海軍中将
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田中 頼三(たなか らいぞう、1892年(明治25年)4月27日 - 1969年(昭和44年)7月9日)は、日本の海軍軍人。海兵41期。最終階級は海軍中将。 旧制山口中学校を卒業。1913年(大正2年)12月海軍兵学校41期卒。生粋の駆逐艦乗りで、水雷屋[1]としてキャリアを重ねた。 第一次世界大戦では第二特務艦隊に属し、地中海で連合国艦船の護衛任務に従事している。 第一次世界大戦後の1920年11月、山口県の田中家へ入籍し姓が田中となる[2]。 太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)9月15日、五藤存知少将の後任として第二水雷戦隊司令官となる[3]。そのまま日米開戦を迎え、南方作戦・蘭印作戦に従事。1942年2月下旬、スラバヤ沖海戦を戦う[4]。この戦いの遠距離魚雷戦について敢闘精神に欠けるとして批判を受ける。 ガダルカナル島の戦いがはじまると、ひきつづき第二水雷戦隊司令官として第二次ソロモン海戦に参加し増援部隊の指揮を執る。しかし、第八艦隊司令部と輸送作戦の方針について意見が合わず、外南洋部隊増援部隊指揮官の任務を解かれたのち[4]、金剛型戦艦や妙高型重巡洋艦を護衛してヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する。増援部隊指揮官に復帰後、第三次ソロモン海戦でも輸送作戦を指揮[4]。ここでも揚陸方針について上申した外南洋部隊指揮官三川軍一中将と意見が相異する。但し、連合艦隊や第二艦隊は田中の意見を妥当としている[5]。 1942年11月30日、当時としても奇抜な発想であるドラム缶輸送に従事している最中、待ち構えていた米重巡洋艦部隊と遭遇戦に突入(ルンガ沖夜戦)。不利な態勢からの水雷戦にも拘わらず、米重巡洋艦1隻撃沈・3隻大破(被害は駆逐艦1隻喪失)という大勝を収めたが、上層部からは補給作戦の失敗を咎められ、部下からは指揮官先頭でなかったこと(田中が「揚陸を止めて、全軍突撃せよ」と命じた後、田中の坐乗する駆逐艦「長波」は敵に向け魚雷を発射し、直ちに避退した[6])・戦闘における積極性のなさを批判された[4]。 1942年(昭和17年)12月29日附で第二水雷戦隊司令官の職務を小柳冨次少将と交代[4][7]。翌1943年(昭和18年)2月に舞鶴警備隊司令官・舞鶴海兵団長[8]、その後は第13根拠地隊司令官(ビルマ)に補され[9]、終戦を迎えた。事実上の左遷人事とされている[10]。
略歴
戦歴(一覧)
フィリピン攻略戦の支援
蘭印攻略戦の支援スラバヤ沖海戦
ミッドウェー海戦(輸送船団護衛)
第二次ソロモン海戦(陸軍輸送船団護衛)
ヘンダーソン基地艦砲射撃(飛行場砲撃隊の護衛)
南太平洋海戦(前進部隊所属)
第三次ソロモン海戦(輸送船団護衛)