田中長兵衛
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この項目では、初代・田中長兵衛について記述しています。長男の二代目の同名の人物については「田中長兵衛 (2代目)」をご覧ください。

たなか ちょうべえ
田中 長兵衛

生誕1834年天保5年)
遠江国
死没1901年明治34年)11月7日
東京
国籍 日本
別名鉄屋長兵衛
職業米穀商
鉱山及び製鉄事業主
著名な実績釜石鉱山での製鉄事業の成功
家族田中安太郎 (長男)
吉田長三郎 (三男)
横山久太郎 (娘婿)
田中長一郎 (孫)
栄誉旧 黄綬褒章 (1887年)
銀杯一箇 (1910年)
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田中 長兵衛(たなか ちょうべえ)は、日本の商人・製鉄業の先駆者。明治政府が失敗し廃した日本初の製鉄所を引き受け、苦闘の末これを成功。一時は国内生産量の過半数を占めるなど、日本近代製鉄の礎を築いた。
生涯
鉄屋長兵衛

1834年(天保5年)遠江国(今の静岡県)の生まれ。父母の名前や詳しい出身地などは分かっていない。若くして江戸へ出た長兵衛は、日本橋横山町で代々「鉄屋」の看板を掲げていた鉄釘銅物商の喜兵衛(よしべえ 1819年 - 1876年)[注 1]の店に入り修行を積む。1855年(安政2年)[2]に鉄屋・長兵衛[注 2]として独立し、麻布飯倉で金物商を始めた。長兵衛24歳となる1858年(安政5年)には妻・みなとの間に、後に二代目長兵衛の名を継ぐことになる長男・安太郎が誕生。商売熱心な長兵衛はやがて近くの三田にある薩摩藩邸(島津家)に出入りを許されるようになるが、これには藩士・伊集院兼常[注 3]の助力があった[1]とされる。薩摩藩兵糧方となった長兵衛は1864年(元治元年)[2]京橋北紺屋町の大根河岸に米穀問屋を開き、染物屋だった大きな建物を母屋とし川岸に倉庫を建てた。また深川冬木町に精米工場[3]を造り、ここで精製した米を船で大根河岸に運んだ。長兵衛は全国から評判の良い米を取り寄せ、それらを配合して美味い米を作るようなことも行っていたという。

維新後の明治3年からは平民苗字許可令により「田中」の苗字を名乗るも、屋号は引き続き「鉄屋」とした。伊集院兼常や西郷隆盛松方正義ら旧薩摩藩士との人脈を生かし、官省御用達商人として主に陸海軍への食糧や鉄材の調達を手掛けて大きく成功する[4]。特に東京市内の陸軍各部隊への糧食供給に関しては長兵衛がほぼ一手に引き受けていたため、この頃には鉄長(鐵長)のハンテンを着た人夫が市内いたるところに見られたという[注 4]。長兵衛は横須賀や大阪にも支店を開設した[注 5]

1874年(明治7年)にはこの3年前に起こった台湾原住民による宮古島島民殺害事件を受けて台湾出兵が計画され、陸軍兵士3千名が向かうこととなった。これに伴い荷運びや炊き出し他を行う人夫職工500名が必要となり、大倉喜八郎の声掛けで、長州毛利家の御用達だった有馬屋清右衛門と薩摩の御用達だった長兵衛でそれぞれ250名ずつ集めるよう依頼があった[注 6]。その上で大倉からぜひ自分と共に現地まで行って欲しいと口説かれ、長兵衛自身も軍に帯同することとなる[注 7]

4月初旬に米国籍の外輪汽船.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}・新約克(ニューヨーク)丸で横浜を出港。当初台湾へ直行する予定だったが英国次いで米国の抗議があり長崎に一時寄港。ここで船を替えるため糧食、薪炭から建築資材まで膨大な荷の積み替えを余儀なくされる。その際問題[注 8]が発生し、後難を排すために有馬屋が帰還。有馬屋が行かぬのならということで長兵衛も渡台を取り止めた。結局有馬屋の代わりに息子の吉太郎(後の森清右衛門)が、長兵衛の代わりにその甥(一番番頭とも)がそれぞれ名代として行くことになった[8]が、当時の台湾はマラリアなどの疫病が蔓延しており、約6ヶ月に及んだ滞在で引率した人夫職工500名中106名が落命するなど過酷な状況であった[9]。この3年後、1877年(明治10年)に起こった西南戦争でも長兵衛は人夫200名を手配している[10]
製鉄事業への挑戦

1882年(明治15年)、当時の官業でも最大規模の238万円もの大金を投じて建設された2基の大型コークス高炉を持つ官営釜石製鉄所がその失敗に伴い廃業となると、その翌年の1883年(明治16年)から工部省は設備等の払い下げを始めた。旧官舎の建物や鉄道のレールなど実用的な物は次々と払い下げ先が決まる中、失敗の烙印を押された製鉄所自体は一向に引き受け手が現れなかった[11]

打診を受けた長兵衛が、娘婿にして田中商店[注 9]の番頭格、横須賀支店長でもあった横山久太郎と共に岩手県釜石へ赴き現地の視察を行うと、機械類は壊れ溶鉱炉の内部に銑鉄の塊が打ち捨てられたままになっており、見るに忍びない様相であった。鉱山自体は豊富な埋蔵量があるかと思われたが、国が大きな予算を注ぎ込み外国人技術者も投入しても成功し得なかった事業を一民間事業者が成せるという自信は持てなかった。しかし、かねてから鉄材国内生産の必要性を強く感じていた横山や自身の長男・安太郎に製鉄事業の再建を強く訴えられる。長兵衛は極めて困難[注 10]として当初はこれを退けていたものの、粘り強い説得を受けてついに製鉄事業に挑むことを決めた[注 11]田中本店。大正12年(1923年)の関東大震災にて焼失。

1884年(明治17年)末、長兵衛は横山久太郎を現場の総責任者に据え、工部省より釜石の土地1,000坪余りを借用すると共に、鉄鉱石5,000トン、他木炭等の払い下げを受ける。新しく2基の小型高炉も建造し、そのうち1基は近代製鉄業の第一人者大島高任がかつて建造したのと同じ型のものとした。また官営時代の技術者の中から高炉操業主任として高橋亦助、機械設備主任として村井源兵衛[注 12]を迎えた[4]。そして1885年(明治18年)1月より、いよいよ官が挫折した製鉄業への民間での挑戦が開始される。

しかし現場の並ならぬ忍耐と努力をもってしても道程は困難を極め、失敗が続くこと実に46回。1886年(明治19年)7月、ついに長兵衛は「スグジョウキョウセヨ」という電報を釜石に送り付け、横山は罷免を覚悟した。

上京する横山より現場を託された高炉操業主任の高橋は、何とか成功させたいという思いから横山不在の間にも2度の操業を試みるがいずれも失敗に終わり、やがて長兵衛自ら釜石に赴く[注 13]という報せが入った。高橋は苦渋の決断の末に全従業員を集めて製鉄所の休業と解雇を告げる。この晩、高橋の夢に不思議な老人が現れ、これまで良い鉱石として使用していたものを不良だと言い、不良だとしていたものこそが真に良い鉱石だと告げて消え去ったという[16]

その翌朝、高橋の元に昨日解雇した従業員一同が訪れた。そして、度重なる失敗に解雇も仕方が無いとは思うが、このまま終わるにはどうしても諦めきれない。家族に食べさせる食糧さえあれば賃金は要らないのでどうか今一度やらせて欲しい、と懇願した。さらに彼らは、これまで不良として使われなかった鉱石をぜひ試してほしいと言う。夢の話との奇妙な一致にもう一度挑戦することを決めた高橋亦助が従業員と共に迎えた通算49回目。鉄は途切れることなく流れ出し、長い苦難の道を経てついに成功するに至った[17]。この日、1886年(明治19年)10月16日は日本の製鉄史に残る日として、後に釜石製鉄所の創業記念日となった。明治27年(1894年)に操業開始し、大正後期まで稼動した栗橋分工場。
釜石鉱山田中製鉄所の発足

1887年(明治20年)3月に当時大蔵相をしていた松方正義に上願書を提出。長兵衛は正式に用地、建物、機械類等全ての払い下げを受けた。同年7月には釜石鉱山田中製鉄所を発足させ横山久太郎を初代所長に任命。京橋区北紺屋町の田中本店では長男・安太郎が長兵衛を助け、釜石で出来た製品を販売することとした。


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