田中道麿
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田中道麿人物情報
生誕
1724年
日本美濃国多芸郡榛木村
(現岐阜県養老郡養老町
死没1784年11月16日
日本尾張国名古屋長者町
(現愛知県名古屋市中区
学問
時代江戸時代
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田中 道麿(たなか みちまろ、享保9年(1724年) - 天明4年10月4日1784年11月16日))は、江戸時代中期の国学者歌人。幼名は茂七。通称は庄兵衛。晩年は榛木翁(はりのきのおじ)と号した。法号は道全。諡号は言霊有功老翁(ことだまいさおのおじ)。

日本の古典文学、特に『万葉集』の研究に心血を注いだ。本居宣長最初期の門人として知られる。
生涯
榛木村時代

享保9年(1724年)、美濃国多芸郡榛木村[注 1] の農家に生まれた。幼くして見るもの全てを歌に詠み、9歳の時初めて「十九本手本なりけり六三郎和俗文章手本なりけり」と詠んだ[2]。幼名は茂七といったが、当時村にはもう一人茂七がいたため、顔の色で区別され、道麿は白茂七、もう一人は赤茂七と呼ばれた[3]

『三世相』や『節用集』を暗記し、更なる書を求め、大垣城俵町の書肆平流軒に奉公に出た[4]
放浪時代

平流軒では古典を乱読する日々を過ごしたが、数百年前の作品には理解し難い点も多く、様々な疑問が生じた。しかし、親身に答えてくれる師も見つからず、宝暦元年(1751年)、一旦学問の道を断念した[2]

本業の農業を疎かにしたことが関係してか[5]、郷里を出て、当時名古屋藩が進めていた宝暦治水事業に従事し[1]、時には近江国伊勢国まで出向し生計を立てた[2]
大菅中養父との出会い

その後、国学者大菅中養父に師事し、学問を再開することとなるが、その出会いには二種類の異なる逸話が伝えられる。

一つは、その日暮らしを続ける中、宝暦7年(1757年)、近江国彦根の某寺に滞在していた所、僧に紹介されたというものである[2]。なお、道麿は後に開出今村(彦根市 開出今町)覚勝寺の海量法師と親しくしている。

もう一つには、東海道土山宿駕籠舁をしていた所、ある日乗せた客が国学を学んでおり、その客には学ぶ所はなかったものの、国学を善くする中養父の名を聞いて入門し、道麿の向学心を認めた豪商納屋七右衛門の家に居候をしながら、中藪村の中養父の下に通い、国学の道に専念したという[6]

なお、浜松賀茂真淵に直接師事したとの話も流布しているが、それを示すような根拠はない。
名古屋時代

彦根には10年間おり、明和初年に名古屋に移ったと伝えられているが[2]宝暦9年(1759年)には既に尾張国にいることがわかっており[7]、また宝暦末には大坂にいたと考えられ[5]、彦根から名古屋に至る経緯については判然としない。名古屋で商家(大丸屋とも)や武家に雇われ、人知れず学問を続けていたが、安永初年、狂歌の批評を書いたものが広まって名古屋中に名が知れるようになり、名古屋小桜町の霊岳院に迎えられ、桜天神社で国学を講ずるようになった[2]

安永2年(1773年)2月江戸に行き、楫取魚彦と交わっている[7]
本居宣長との交流

安永4年(1775年)、本居宣長が出版した『字音仮字用格』の「オヲ所属弁」に感銘を受け[8]、安永6年(1777年)7月、松坂の宣長を訪問した。その後、『万葉集』や『古今和歌集』に関する問答の文通を続け、安永7年(1778年)師大菅中養父を喪うと、安永9年(1780年)1月再び松坂を訪れ、正式に宣長の門下に入った。もっとも道麿は宣長より年上であったため、宣長の方は道麿をむしろ同好の士として遇した。

当時宣長は松坂近辺の門人と共に細々と活動するローカルな存在であり、道麿初の伊勢国外の初の門人であった。道麿の死後、大都市名古屋の300名ともいわれる道麿門下の者は直接宣長の門下に入り、その中には横井千秋稲葉通邦など大藩名古屋藩関係者も多くいたため、道麿は宣長が全国に名を広める足がかりを作ったといえる[5]

天明元年(1781年)、60歳を迎えて剃髪し、道全と号した。

天明4年(1784年)春、口内痛から始まり、2月13日病床に着き、手足を屈曲できない攣?の状態に至った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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