この項目は訃報が伝えられた直後の人物について扱っています。その人物の死の詳細や取り巻く環境また状況が知れ渡っていくに従い、この項目の内容もまた急速に大きく変化することがありますのでご注意ください。
2022年12月23日 (金) 02:13 (UTC)貼付。(表示終了予定:2022年12月30日 (金) 02:13 (UTC))
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出生名田中 裕二
別名裕二
生誕1957年5月29日
日本・北海道旭川市
死没 (2022-12-17) 2022年12月17日(65歳没)
職業ドラマー
カフェ・オーナー
担当楽器ドラム
活動期間1982年 -(安全地帯)
1989年 - 1990年(VoThM)
レーベルキティレコード、
ソニー・ミュージック、
ユニバーサル・ミュージック
(安全地帯)
事務所MUSICAL FARMERS PRODUCTION
共同作業者安全地帯
オールマン・ブラザーズ・バンド
田中 裕二(たなか ゆうじ、1957年5月29日 - 2022年12月17日)は、日本のドラマー、ミュージシャンである。血液型はO型。左利き。
北海道旭川市出身。1977年からロックバンド『安全地帯』のメンバーとして活動した。
同姓同名の別人にコメディアン・爆笑問題の田中裕二がいる。
来歴
幼少・青少年期
1957年、自動車整備工である父親の家庭に生まれる。
1962年、矢萩渉と出会う。
1972年、中学3年時、ギターを弾いていた同級生の矢萩渉とバンドを結成。
1973年、高校進学後、ベースとキーボードを弾いていた六土開正率いる『六土開正バンド』に矢萩と参加。オールマン・ブラザーズ・バンドなどのサザン・ロックを主体にコピー演奏活動をしていた。
1974年?1976年、音楽コンテストに出場する中で、玉置浩二率いる『安全地帯』と親交を深める。
1977年、安全地帯と合併する。洋楽コピーバンドの『六土開正バンド』の演奏技量とオリジナル楽曲バンドの『安全地帯』の楽曲制作能力に相互に惹かれ合った結果で、安全地帯の原型が完成する。
1978年、11月に安全地帯を一時脱退する。家業の自動車整備工場を継ぐためであった。
1981年、安全地帯は井上陽水のコンサートツアーのバックバンドに抜擢され、上京する。
バンド『安全地帯』デビュー
1982年、安全地帯1st.シングル『萠黄色のスナップ』でキティレコード(後にユニバーサル・ミュージック)からデビュー。ドラマーの大平市次の脱退に伴い、再加入する。同バンドのライブやコンサートでは、時折ソロでのドラム演奏を披露した。
1987年、季刊リズム&ドラム・マガジン 1987年1月 冬号 No.17にインタービュー記事が載る。ドラムのセッティングも載る。
1988年、安全地帯が活動休止を宣言。これは、バンドメンバー個々の音楽活動の進化の影響とバンドの追求する音楽の方向性を模索する結果であった。
バンド『VoThM』活動期
1989年、元C-C-Bの渡辺英樹、丸山正剛とバンド『VoThM』を結成。
1990年、安全地帯の活動再開により、『VoThM』を脱退。洗練された都会的ロック指向から野性味のあるロックを目指し、社会問題からメッセージソングも取り入れた。
1993年、安全地帯23rd.シングル『ひとりぼっちのエール』発売以降、再度活動休止。プロデューサーに須藤晃を迎え、バンドの方向性に据えようと試みるが、それに伴うレコード会社移籍、音楽性志向に不安な状態のためであった。
カフェ・レストラン・オーナー兼ドラマー
1994年、安全地帯のコンサートが数度開催されるが、メンバー個々の活動を行なう。音楽性を模索するバンドリーダーの玉置のソロ活動に安全地帯のメンバーとして最初に参加した。