田中芳男
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その他の「たなかよしお」の同名の人物については「Wikipedia:索引 たなか#たなかよ」をご覧ください。
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伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年8月)

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年2月)

田中 芳男
人物情報
別名芳介(幼名
生誕 (1838-09-27) 1838年9月27日天保9年8月9日
信濃国伊那郡飯田中荒町(現:長野県飯田市
死没 (1916-06-22) 1916年6月22日(77歳没)
東京府東京市本郷区金助町(現:東京都文京区本郷
国籍 日本
配偶者ゑい(三沢良益養女)
両親隆三(父)、ツマ(母)
子供礫三郎(養子・奥村邦秀三男)、節三郎(養子・後藤多美雄三男)、奈津(長女・節三郎妻)、睦子(次女・辻太郎妻)、冬子(三女・井村大吉妻)、秋子(四女・柘植六郎妻)、五一(次男)、美穂(六女・関屋龍吉妻)
学問
研究分野物産学、博物学
研究機関蕃書調所→洋書調所→開成所
影響を受けた人物伊藤圭介
学会帝国学士院
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日本政治家田中 芳男
貴族院議員
選挙区(勅選議員
在任期間1890年9月29日 - 1916年6月22日
元老院議官
在任期間1883年6月25日 - 1890年10月20日
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田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日1838年9月27日) - 大正5年(1916年6月22日)は、幕末から明治期博物学者動物学者植物学者農学者園芸学者、物産学者。錦鶏間祗候男爵

「日本の博物館の父」として知られる[1]。博物学や分類学における翻訳語の成立に関わった[2]市川清流によって考案された「博物館」という和製漢語を、町田久成とともに普及させた。東京国立博物館上野動物園の設立に携わった。パリ万博ウィーン万博での日本の出展に貢献した。殖産興業啓蒙活動に努めた。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任した。
生涯
生い立ち

1838年(天保9年)8月9日、信濃国伊那郡飯田城下の中荒町(現在の長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏[3]の典医を務める医師田中隆三(号:如水)の三男として生まれた。隆三は1834年長崎に留学して蘭学を修めており、医学のみならず本草学、舎密学(化学)などにも関心が深く、芳男もその影響を強く受けることになった。また、隆三は芳男に漢学を身に着けさせ、特に「人の人たる道は、この世に生まれたからには自分相応の事をして世用を為さねばならない」と教え諭した[4]。兄が病死したため、家督と医業を継ぐことになった。晩年の伊藤圭介

1856年(安政3年)秋、名古屋に出て尾張藩御典医で博物学者としても著名であった伊藤圭介の門下に入り、千村五郎柳河春三らと共に書生として種痘などの西洋医学を身に着けたほか、博物学や本草学を学んだ。しかし、1858年には故郷の飯田に帰った。ただ、自宅で本草学や博物学の研究を行ったり、時には名古屋に出て伊藤圭介のもとで学問をしていたという[5]
幕府に仕える

1862年(文久2年)、伊藤圭介が幕府の蕃書調所(間もなく洋書調所に改組)に招聘を受けることなり、芳男はその助手として出仕し、物産学・本草学の研究開発に当たることとなった[6]。芳男のその後の述懐によると、この際採用された人物の多くは、師である伊藤圭介を含めて、ダイコンニンジンゴボウなどといった日用産物の殖産には関心がなく、芳男が物産所でもっぱらこの研究に従事することとなったという[7]。この間、圭介の伴をしてシーボルトを訪ねている[8]。開成所付置の物産所で殖産興業の発展を探った。その後師は高齢により職を辞して故郷に帰り、その後任となった。1865年慶応元年)、幕府はパリ万国博覧会に正式参加表明し、万博に昆虫標本の出品を決定することとなった。翌1866年(慶応2年)、芳男は幕府からパリ万国博覧会への出張と昆虫標本採集と製作を命じられ、関東一円に赴き博物学者の子阿部為任と採集を行った。同年11月、パリに向けて出港し、シンガポールやスエズ運河を経由して到着している。1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に出張。自ら採集した昆虫標本が現地の研究者に高く評価された[9]
明治政府の官僚として

1867年(慶応3年)帰国した。翌年には戊辰戦争が起こり、5月には上野戦争があったが、芳男はこれには関わらず、研究や整理に没頭した。

東京が明治新政府の所有となると、洋書調所は開成所に解消され、芳男は御用掛として任命されて大阪舎密局の建設に従事した[10]


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