田中真紀子
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田中麻記子」あるいは「田中真木子」とは別人です。
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日本政治家田中 眞紀子たなか まきこ
内閣広報室より公表された肖像(文部科学大臣時)
生年月日 (1944-01-14) 1944年1月14日(80歳)
出生地 日本 東京都文京区
出身校早稲田大学商学部卒業
現職越後交通代表取締役相談役
所属政党(無所属→)
自由民主党→)
(無所属→)
民主党
称号商学士
旭日大綬章
配偶者田中直紀
親族田中角栄(父)
田中はな(母)
田中雄一郎(長男)
第17代 文部科学大臣
内閣野田第3次改造内閣
在任期間2012年10月1日 - 2012年12月26日
第126代 外務大臣
内閣第1次小泉内閣
在任期間2001年4月26日 - 2002年1月30日
第52代 科学技術庁長官
内閣村山内閣
在任期間1994年6月30日 - 1995年8月8日
衆議院議員
選挙区(旧新潟3区→)
新潟5区
当選回数6回
在任期間1993年7月18日 - 2002年8月9日
2003年11月10日 - 2012年11月16日
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田中 眞紀子(たなか まきこ、1944年昭和19年〉1月14日[1] - )は、日本政治家実業家越後交通代表取締役相談役[2]、長鐵工業代表取締役会長[3]

文部科学大臣第17代)、外務大臣第126代)、科学技術庁長官第52代)、衆議院議員(6期)、衆議院外務委員長文部科学委員長新潟放送取締役などを歴任した[4][5]

日本で初めて女性で外務大臣を務めた。父は第6465内閣総理大臣田中角栄。夫は防衛大臣などを務めた田中直紀[1]
来歴・人物
生い立ち

東京都文京区に父・田中角栄、母・はなの長女として生まれる。本籍地新潟県柏崎市千代田区立富士見小学校日本女子大学附属中学校・高等学校を経て、早稲田大学商学部へ進学。早大在学中は演劇サークル劇団木霊に所属し、同期には久米宏長塚京三がいた。大学卒業後は1968年から1969年まで劇団雲研究所に所属し、女優として舞台に出演するが、結婚を機に引退。母が病弱であったことや、高校時代のアメリカ留学経験もあり、父・角栄が首相在任中は事実上のファーストレディの役目を担った。ただし子供の頃や政界入りする前は角栄と対立する事も多く、進学先や田中直紀(旧姓:鈴木)との結婚などは角栄の反対を押し切り決めたという。なお、直紀が田中家に婿入りの条件は、「一.直紀を父・直人(鈴木直人)の選挙区だった旧福島3区から衆議院選挙に立てること。」、「二.田中家の全財産は将来、直紀に譲ること。」、「三.以上の約束を披露宴で公表すること。」だった[6]
衆議院議員科学技術庁長官時の田中

1993年7月の第40回衆議院議員総選挙旧新潟3区から無所属で立候補。同選挙区では自民党は桜井新村山達雄渡辺秀央の3人に公認を出した。現職の星野行男は自民党を離党し新生党公認で立候補した。定数5に対し、田中はトップで初当選した。その後、自民党の衆議院議員となった。

1994年6月30日に発足した村山内閣で、1年生議員ながら科学技術庁長官として初入閣し波紋を呼んだ[注釈 1]。その後も高い人気を保ったが、その源泉は与党内野党的な自由な立場からの奔放な発言であった。教育実習ボランティア活動を義務化させる提案をし実現させ物議を醸した。

1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では新潟5区から自民党公認で立候補。新進党の公認を得た現職の星野行男らを破り、再選を果たす。

2001年小泉純一郎首相誕生に際しては、総裁選での応援を買って出るなど大きく寄与し、女性初外務大臣に就任した。外相在任後、様々な騒動を起こした[7]
外相更迭と議員辞職・自民党離党

ターニングポイントとなったのが、事務方との対立に起因する、2002年1月30日の外相更迭であった。当時は世論の圧倒的多数が更迭に反対して田中を支持、小泉内閣の支持率が一時的に急落するほどであった(読売新聞では下げ幅が30.7%に及んだ)。

2002年春に、秘書給与流用疑惑が報道された[8]。同年8月9日、自身の公設秘書給与の流用疑惑の責任を取る形で、議員辞職[9][10]

2003年に自民党離党[11]。同年11月の第43回衆議院議員総選挙無所属で当選し、国政へ復帰[8]。民主党の院内会派「民主党・無所属クラブ」に加入した。今度は以前に所属していた自民党に対して厳しい批判を繰り返すようになった。
民主党入り

衆院選を目前に控えた2009年8月15日、新潟県長岡市内で記者会見し、夫の田中直紀参議院議員とともに民主党入りを表明。鳩山由紀夫代表と三人での記者会見であったものの、14日に入党手続き自体をすませていた。田中らの入党は、小沢一郎代表代行らが民主党本部へ依頼していた[11]。民主党入りの理由について「確実に二大政党(の時代)になる。有権者に約束してきたことを実現するためには、組織に所属しなければならない」と述べ、選挙後の入党という選択肢については「それでは有権者に対して失礼」と否定した。鳩山由紀夫民主党代表は「夫婦そろっての民主党入党を心から歓迎する」と述べた[12][13]

同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、衆議院文部科学委員長に就任。2011年6月の菅内閣不信任決議案(菅おろし)で党議拘束に違反して棄権したため、民主党執行部から3か月の党員資格停止処分が下された。なお、国会の役職については解任しない旨が民主党執行部から通達されたため、衆院文部科学委員長の職には留まった。党員資格が停止されたため、2011年民主党代表選挙では投票権が与えられなかった。同年9月の野田内閣の成立に伴い、衆議院外務委員長に就任。

2012年6月26日消費税増税法案には、小沢一郎鳩山由紀夫らが反対票を投じ、小沢は自身のグループに所属する議員の大半を率いて離党、国民の生活が第一を結党したのに対し、田中は賛成票を投じ、造反の動きに同調しなかった。以前から田中は「反・野田」のスタンスに軸足を置いていたが、2012年9月民主党代表選挙では一転して野田首相の再選を支持し、野田陣営に参加している。同年10月、野田第3次改造内閣文部科学大臣に任命され、2001年に発足した第1次小泉内閣以来、約11年ぶりに3度目の入閣を果たした。

同年11月、2013年春に新規開校を予定していた大学3校の不認可を示唆。3大学は、文部科学省の諮問機関である大学設置・学校法人審議会の認可を受けており、文部科学大臣が審議会の判断を覆すのは極めて異例で、田中は不認可の理由について「大学が多すぎ、質が低下している」と説明したことから[14]、関係各所を巻き込んだ騒動に発展。この3校以外に同時期に認可の申請が出された既設大学の16学部、13の大学院を認可したことに続き、結局、文部科学省は11月8日、新規3校についても正式に認可した[15]
落選

しかしこれまでの一連の政治活動の流れ、また下記のような誹謗中傷的な発言・行動から、角栄に恩義を感じ尽力していた者達からも段々と見限られていく。現職閣僚として挑んだ2012年12月16日第46回衆議院議員総選挙では、強固な地盤だった新潟5区で自民党の長島忠美に3万票近い差をつけられ比例復活もならず落選した。民主党大敗の象徴や「田中王国」の崩壊と取り上げられた。皮肉にも父・角栄の死去から丁度19年になる命日での出来事であった[16]。12月26日、内閣総辞職により、文部科学大臣を退任。

2014年12月に行われた第47回衆議院議員総選挙では新潟5区の民主党公認候補に内定していたが、「仕事の状況を鑑みて立候補は難しい」として立候補を見送った[17]。また、長島の死去に伴い2017年10月に予定された新潟5区補欠選挙へ立候補が取り沙汰されたが、最終的に立候補せず事実上政界を引退した形となっている。

2022年春の叙勲で夫・直紀と共に旭日大綬章を受章[18][19][20]

2024年1月8日、旧田中角栄邸から出火し、2階建ての住宅延べ約800平方メートルが全焼。南側の雑木林なども焼けた。


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