田中忠三郎
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田中 忠三郎(たなか ちゅうざぶろう、1933年11月26日 - 2013年3月5日)は、日本民俗学者・民俗民具研究家・著述家。「布文化と浮世絵の美術館」・浅草アミューズミュージアム名誉館長。
人物・来歴

1933年昭和8年)11月26日青森県下北郡川内町(現・むつ市)生まれ。渋沢敬三に傾注し、民具の調査・収集に奔走してきた在野の学者

20代前半まで家業の水産加工場の仕事を手伝う傍ら、私的に縄文遺跡の発掘調査を行うようになる。1958年昭和33年)に地元を離れ、平内町の金物屋に住み込みで働きながら遺跡の調査に関わり、そこから約10年ほど青森県内各地でアイヌの調査や、縄文中期(紀元前2500年頃)・縄文晩期(紀元前1000年頃)の遺跡を中心に調査を行う。

その後、平内町教育委員会の勤務を経て、1965年頃より調査の対象を考古学から民俗・民具へと転じ、三沢市の小川原湖民俗博物館に勤務。後に青森市へと居を移し、青森市歴史民俗展示館 稽古館の館長に就任する。民俗学へ転じて以降、半世紀近くにわたり集落の姥や古老から昔の話を聞き取るフィールドワークを行った。

伴って江戸時代明治大正昭和に至るまで各時代の衣・食・住にかかわる衣服や民具(生活用具)を収集・保存する活動を行う。結果、田中忠三郎のアンティークコレクションは2万点に及ぶ膨大なものとなり、現在そのうち津軽・南部の刺し子着786点が国の重要有形民俗文化財に、紡績用具と麻布520点が青森県有形民俗文化財に指定された。

これらコレクションは柳宗悦青山二郎白洲正子らの流れを汲む「用の美」を体現するものとして、都築響一らが作品制作のために借り受けた。またこの他に所有する古書近世文書のコレクションも1万点を超える。歴史学者はもとより棟方志功高橋竹山ら芸術家・文化人との交流も深い。

1975年には寺山修司の「田園に死す」、1990年には黒澤明」に両監督たっての希望で、田中忠三郎コレクションから衣裳や民具等を撮影用に提供したことから長期間のロケに帯同(「田園に死す」の舞台となった古民家は田中忠三郎の所有、小道具には田中コレクションを使用。「夢」では農民衣裳を提供)。

近年では、田中忠三郎コレクションのなかの裂織・ぼろ布の芸術性に注目し、ぼろを優れたテキスタイルデザイン・フォークアートとして、消費文化の対極にある本物のエコロジーとして捉えた写真集「BORO」(都築響一撮影・2009年1月出版)の発行や、東京上野の森美術館、京都思文閣美術館、旭川国際染織美術館、東京青山ブックセンターでの「田中忠三郎コレクション 『BORO』」展が行われた。

また田中が20 - 30代にかけて発掘した縄文遺跡の考古学資料約1万点は、現在のコレクションから別れて、国立歴史民俗博物館に提供されており、合わせて民俗資料を含む約2万点が同博物館に所蔵されている。また同じくアイヌ資料も現在のコレクションから別れて国立民族学博物館アイヌ民族博物館に所蔵されている。

2009年11月に開館した東京都台東区浅草アミューズミュージアム(BORO等を含めた日本の布文化等を展示)の名誉館長を務める。

2012年1月に放送されたNHK「新日本風土記」では、個性的な日本のへうげもの(目利き)10人の1人として、古田織部・柳宗悦・北大路魯山人・棟方志功らと並んでアミューズミュージアム名義で紹介された。

2013年3月5日喉頭癌のため死去[1]。79歳没。

2014年11月から2015年2月にかけて十和田市現代美術館において、田中忠三郎コレクションを現代アートの観点から捉え直した展覧会「田中忠三郎が伝える精神?東北の民俗衣コレクションと現代美術」が開催され、田中コレクションと同コレクションに触発された現代美術の作家たちの作品が並列に展示された。


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