「田中商事」とは異なります。
「田中昭二 (曖昧さ回避)」あるいは「田中正司」とは別人です。
日本の政治家田中 彰治たなか しょうじ
衆院決算委員長当時(1954年)
生年月日1903年6月18日
出生地 日本 新潟県新井市
(現:新潟県妙高市)
没年月日 (1975-11-28) 1975年11月28日(72歳没)
死没地 日本 東京都
出身校岩倉鉄道学校
前職炭鉱主
所属政党(民主自由党→)
(自由党→)
(分党派自由党→)
(自由党→)
(日本民主党→)
(自由民主党→)
無所属
第7・12代 衆議院決算委員長
内閣第4次吉田内閣
第5次吉田内閣
第2次岸内閣
衆議院議員
選挙区旧新潟4区
当選回数7回
在任期間1949年1月24日 - 1966年9月13日
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田中 彰治(たなか しょうじ、1903年6月18日 - 1975年11月28日)は日本の政治家。元衆議院議員(自由民主党・7期)。政界の爆弾男として鳴らし、時の政権でさえ無視できないほどの影響力を誇ったが、黒い霧事件で失脚した。 新潟県新井市(現妙高市)出身。電報配達員から上京して岩倉鉄道学校で学び、鉄道省に入り機関士となるが辞して樺太で農業を営む。1929年5月に傷害罪による罰金刑を受け、1930年12月には横領、恐喝、有価証券偽造・同行使、詐欺罪で懲役2年の実刑判決を受けて服役した。1943年には別の詐欺罪で懲役2年6ヶ月の刑が確定したものの逃走し、1948年5月に刑の時効を迎えて刑を執行免除されている[1]。戦後は名古屋で養鶏場経営を手がけた後、九州で炭鉱を経営し一財産を築いた。 1949年の第24回衆議院議員総選挙に田中は、新潟4区から民主自由党公認で立候補し初当選。この時の選挙では、二千数百万円を買収資金としてばらまいたとされ[2]、選挙違反で逮捕され翌年有罪判決を受けるが、恩赦を受ける。民自党→自由党では広川弘禅と行動を共にし、広川が分党派自由党に走った際にもこれに従うが直ぐに自由党へ復党している。 1952年に衆議院決算委員長に就任。1954年の造船疑獄で、政界工作の会合に出ていた当事者を記した森脇将光によるメモ(森脇メモ)を引き合いに出し、当時の吉田茂首相や緒方竹虎副総理・佐藤栄作自由党前幹事長の証人喚問を行おうとした。このため堤康次郎衆議院議長が「決算委員会としての調査範囲を超えない様に」と勧告、田中はそれでも喚問を強行しようとしたことから自由党を除名され、直後に結成された日本民主党に鞍替えした。 1955年に自由民主党が結党されると田中もこれに参加し、河野派に所属。1958年に再度衆院決算委員長に就任。決算委員長や決算委員会理事として決算委員会を舞台に職権をフルに使って政財界の癒着を粗探しして表向きには追及する素振りを見せながら、その実その当事者を脅して金品をせしめていたとされる。 航空自衛隊の第1次FX問題や日本国有鉄道志免鉱業所払下げ・九頭竜ダム建設工事落札をめぐる疑惑など、田中が決算委で追及しながら結果として全容の解明に至らなかった疑惑や不正は多い。職権を利用して疑惑を追及する振りをしながら権謀術数で利益を私する田中の行為は、後に「政界のマッチポンプ」という非難を受けることになる。
人物
政界入りまで
政界の爆弾男に
マッチポンプ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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