田中富三郎
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サムハラ神社

所在地大阪府大阪市西区立売堀2-5-26
位置 ⇒北緯34度40分44.2秒
東経135度29分27.5秒

主祭神天御中主大神、高産巣日大神、神産巣日大神
創建1950年(昭和25年)
例祭月次祭(毎月23日)、春秋大祭(4月・10月 22・23日)
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サムハラ神社(さむはらじんじゃ)とは大阪府大阪市西区立売堀にある神社である。
目次

1 概要

2 建立者

3 祭礼

4 授与品

5 平野町護符所

6 関係のあった人物

7 サムハラについて

7.1 サムハラの故事

7.2 その他


8 参考文献

9 関連項目

10 注

11 外部リンク


概要

祭神は天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神であり、サムハラは三神の総称である。奥の院が美作加茂(岡山県津山市)にある。

1935年昭和10年)に田中富三郎が出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市加茂町)にて旧い小さなほこらの荒廃を嘆き再興したのが本社の起源。しかし翌年岡山県から無許可神社で商品広告しているとして自主撤去を求められ撤去した[1]。戦後ほこらは再建され、神社は大阪中之島豊国神社隣接地に自費で建立。1961年(昭和36年)に現在地へ移築遷宮された。隣接地に大阪府警察の機動警ら隊がいる。
建立者

田中富三郎。1868年明治元年)3月3日に美作加茂で生まれる。万年筆業界の先駆者で「大元堂」を経営。加茂西小学校図書館を建設、奨学資金を贈るなど児童育成に貢献し紺綬褒章を授与される。サムハラ大神をあつく信仰していたため日清戦争日露戦争で数々の危難をまぬがれ、サムハラ大神の霊徳を世の人々に分かつため私財でサムハラ神社を建立。神前扉材は伊勢神宮より賜った。戦時中に兵士にお守りを贈る活動をしていたが、戦後も小判の形のお守りを自費で作成し無料で人々に配布していた。多くの要人にも贈呈をした。90歳までは自転車を乗り回すことも平易だった。97歳の時でも壮健であり自らを青年と称した。「信仰は万益有って一害なし」と常に提唱。毎朝参拝を欠かしたことはなかった。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100歳。サムハラ神社境内に胸像がある。宮司は養子が継いだ。
祭礼

元旦祭(1月1日)

歳旦祭(1月3日)

節分祭(2月2日・3日・4日)

春季大祭(4月22日・23日)

秋季大祭(10月22日・23日)

大祓式(6月30日・12月31日)

月初祭(毎月1日)

月次祭(毎月23日)

諸願の祈祷は随時。

授与品

商標登録されている(登録番号・第4197997号)。

銭の形をしているお守りは千円。袋付き(袋守)は千二百円、3色(朱・紫・緑)。

指輪(神輪)は二千円、号数を指定する。

神棚に収める家庭用お札千円。肌守り千円。

交通安全お守り(多種のようですが)千五百円。

郵送も可能(送料は別)。
平野町護符所

大阪市中央区平野町に宗教法人サムハラ神社収益事業部があり、施設の名称をサムハラ神社平野町護符所と称する。施設の入り口前にはサムハラ神社の授与品(お札・お守りなど)が展示されている。

サムハラ神社平野町護符所(サムハラ神社護符所)

大阪市中央区平野町4?6?10
関係のあった人物

浜木綿子 - 1964年(昭和39年)2月、公演中事故にあったが怪我をまぬがれた。

山本利助 - 1964年(昭和39年)6月、交通事故にあったが怪我をまぬがれた。 ⇒小倉屋山本の社長。お礼として境内にクスノキを献樹した。

宇野豊蔵 - 1985年(昭和60年)1月、交通事故にあったが怪我をまぬがれた。宇野宗佑の伯父で実教出版の元名誉会長。

サムハラについて

無傷無病、延命長寿の神として知られる。サムハラ[2][3]とは不思議の4文字で、身を守ると言われている。これは漢字のような文字であるが、神字であり漢字ではないためワープロによる活字変換は不可。

東大寺(印西東大寺)(千葉県印西市)、雷山千如寺大悲王院(清賀上人により十転化の功徳があるという)など各地の寺社のお守りの呪文に使用されている。
サムハラの故事

曾子が病になって臨終の際に、弟子に体の全部を調べさせ、一つの傷痕もないのを見て安心し「父母に体を受けて生まれて幸いにも一つの傷痕もなくお返しする事ができるのはを尽くしたことだ」と言い、生命の守護神(サムハラ大神)に深く感謝したという。

身體髮膚 受之父母 不敢毀傷 孝之始也[4]
身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり

? 孝経

加藤清正文禄・慶長の役の時、サムハラを武器の刃に彫りつけて信じていたために万死に一生を得たという。

耳嚢[5]』巻2に、1782年天明2年)、新見愛之助という小姓が登城の時に馬ごと坂の下に落ちたが怪我がなかった。他の者に理由を聞かれると領民から送られた守護札を見せ「領民が野においてキジを矢で射たが当たらず、逃げようともしない。弓がうまい者たちが競ったが駄目であった。このキジを捕まえたところ背中にサムハラの4文字が書いてあった。『この文字を書いた札を懐に入れておくと良いことがある』と流行った。」と語った[6]との記述がある。

平田篤胤の『仙境異聞』(上) 三之巻[7][8]に慶長年間に大樹公(征夷大将軍のこと)が狩で発見した鶴の羽にあった文字(サムハラの文字)が怪我よけとして広まり、寅吉が仙骨の人の符字のようなものに見たが、「ジヤク、コウ、ジヤウ、カウ」というように聞いたがよく知らないと言ったという。

岡田挺之の随筆『秉穂録』に「福岡で鶴を捕ったところ、鶴の翼に「さむはら」という四文字の符字があった。長命の符字であるだろうと人々はこれを写し取って帯びた。また斎藤実盛の位牌が淡路のある寺にあり、位牌の背にこの四文字がある。最近、江戸でこの符字を帯びた人が落馬したが怪我が無かったので、これを帯びることが流行した。」とある[9]

國安仙人(万延元年(1860年)7月23日-大正元年(1912年)9月28日 幼名 米太郎 普明光美 加波山神社の摂末社普明神社に祀られる。)が信者に与えたタク字びよる霊符の最初の4文字がサムハラの文字(読みは「けん しょう けん ご」)であったという[10]

その他

サムハラは
サンスクリット語の sa?vara (「三跋羅[11](さんばら)」)という言葉に由来するという。

淡路の寺に斎藤実盛位牌があり、その背にサムハラの文字が書かれている。経緯は地元の人も知らない。

短刀に刻印し守り刀とされた[12]


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