田中均
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

経済学者の「田中仁史」とは別人です。

田中均
2015年撮影
生誕 (1947-01-15) 1947年1月15日(77歳)
京都府京都市
国籍 日本
出身校京都大学法学部卒業
オックスフォード大学
大学院修士課程 (P.P.E.) 修了
職業公益財団法人日本国際交流センター
シニア・フェロー
株式会社日本総合研究所国際戦略研究所
理事長
親田中正一(
テンプレートを表示

田中 均(たなか ひとし、1947年1月15日 - )は、日本外交官。公益財団法人日本国際交流センターシニア・フェロー日本総合研究所理事長[1]

北米局北米二課長、アジア局北東アジア課長、英国国際戦略研究所研究員、在連合王国日本国大使館公使、総合外交政策局総務課長、北米局審議官、在サンフランシスコ日本国総領事外務省経済局局長、外務省アジア大洋州局局長、外務審議官(政務担当)などを歴任した[1]

アジア大洋州局長時代に北朝鮮と秘密裏に交渉し、2002年日朝首脳会談を実現させた[2][3]
来歴

京都府京都市生まれ。府立洛北高校を経て、1969年京都大学法学部卒業後、外務省に入省。1972年オックスフォード大学哲学・政治・経済学修士課程(P.P.E.)修了。父は(総合商社日商岩井(のち双日)元会長)の田中正一(1912?2002)で、3人の兄がいる[4]

退官後は、日本国際交流センターにて、シニア・フェローに就任。また、東京大学大学院公共政策学連携研究部客員教授に就任し、公共政策大学院の講義を担当した(2006年4月?2018年3月)。

現在、株式会社日本総合研究所において国際戦略研究所理事長を兼任している。[1]他、(公社)ユナイテッド・ワールド・カレッジ日本協会幹事[5]、(公財)経団連国際教育交流財団評議員[6](社)日本経済団体連合会 経営労働政策委員会のアドバイザーを務めている。
人物前列左から駐英大使林景一小泉進次郎、本人、イギリス貴族院議員マイケル・ハワード長島昭久。後ろの右端は共同通信論説委員長会田弘継。2013年5月2日

入省当初は、経済協力・援助を手がけ、日本最大の援助対象国であったインドネシアに勤務している。1979年の米大使館赴任以降は対米関係の専門家として、安保政治経済いずれのポストも経験した。経済を担当する北米第二課長時代は日米半導体交渉を担当、数値目標を事実上盛り込むことで日米間で大きな火種となった極秘のサイドレターを書いたことを後に認めている[7]

安保を担当する北米局審議官時代は1996年4月の在日米軍普天間基地返還合意で実務に携わった[8]。また1996年の日米安全保障共同宣言[9]の外務省における責任者も務めた。

東アジア外交との関わりは1987年の北東アジア課長就任以降であり、以後朝鮮半島問題に様々な形で関与することになっていった。同課長時代に起きた大韓航空機爆破事件を巡って犯人の金賢姫とソウルで面会した際、北朝鮮による日本人拉致事件が事実であることを確認した[4]。その後在樺コリアンの帰国支援に関与した他、総合政策局総務課長時代には北朝鮮核危機1993年)における危機管理を手がけた。米朝枠組み合意後のKEDO設立における日本側の実務責任者でもあった。同じく総務課長時代には、アジアとの平和友好交流計画、村山談話アジア女性基金設立、のいずれにも携わった[10]

日朝首脳会談を実現させ、拉致被害者の帰国に導いたことが高く評価され、一官僚としては異例な程に田中の名前がクローズアップされた。他方で、蓮池夫妻、地村夫妻、曽我氏が帰国した際、北朝鮮側とは当初5人を再度北朝鮮へ帰国させる交渉内容であったことを官邸で言及したことが取り沙汰されたり、日朝平壌宣言の文言に拉致問題に関する具体的な言及がなかったことで、日朝国交正常化を優先し拉致被害者問題を軽視したとの批判が出た[11][出典無効]。

2003年9月、「建国義勇軍国賊征伐隊」を名乗る右翼団体によって、自宅ガレージに爆発物が仕掛けられる事件が発生。この事件に対し、石原慎太郎東京都都知事は「爆弾を仕掛けられて、当ったり前の話だ。いるか、いないかわからないミスターXと交渉したと言って、向こう(北朝鮮)の言いなりになる」とコメントした[12]

2005年外務審議官(政務担当)を最後に退官。大使への転出打診を辞退し[13]、現在は執筆、評論、対外発信活動を精力的に行っている。
エピソード

外交官をめざすきっかけとして、父・正一による勧めがあった。正一は、
第二次世界大戦直前に岩井産業ロンドン支店へ赴任し、その後ペルーで商社マンとして行っていた情報収集活動をペルー当局から「スパイ容疑」をかけられ、死刑宣告を受けるも現地日系人の支援によって間一髪免れた。代わりに捕虜交換員として米国サンフランシスコアルカトラズ島に送られ取調べを受け、テキサス州の日本人強制収容所に送られ、更に捕虜交換のために南アフリカまで連れていかれ、ようやく日本へ帰国した。しかし今度は赤紙で中国戦線へ召集され、偶然が重なったことで最前線には送られず生還することが出来た。こういった父の生き様、日本の運命がいかに外交によって変わっていったかという話を聞いて育ち、均は次第に外交官を目指すようになった[4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:51 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef