凡例田中 吉興
生誕不詳
死没寛永6年5月6日(1629年6月26日)
戒名明翁半畦
墓所京都三玄院
官位不詳
氏族田中氏
父母父:田中吉政 母:国友与左衛門の娘
兄弟吉次、康政、吉興、忠政
子養子:吉官、娘(田中吉官正室)
テンプレートを表示
田中 吉興(たなか よしおき)は、江戸時代前期の大名。筑後柳川藩主・田中吉政の三男。 長兄の吉次は父と不和のため廃嫡され、次兄の則政も病死していたことから、長幼の順では吉興が後継者となるところであったが、病弱を理由として弟の忠政が継嗣とされ、第2代筑後国主となった。のちに忠政から3万石を分知され、現在の久留米市田主丸町村島に居館を構える。田主丸の町並みも、そのころに作られたと思われる。 元和6年(1620年)に忠政が死去して無嗣断絶となったのち、近江国野洲郡・三河国田原・上野国新田などで合計2万石を与えられ、大名としての田中家の名跡を継いだ。 吉興には男子がなかったため、元和8年(1622年)8月に徳川家譜代家臣の菅沼定盈の八男を娘婿に迎え、田中吉官と名乗らせて家督を譲った。吉官は江戸幕府の小姓頭を務めたが、元和9年(1623年)9月に部下の罪に連座し除封され、のちに旗本として起用された。なお、田中一族には父・吉政の弟に田中兵庫助氏次
生涯
寛永6年(1629年)に死去した。