田中勉_(野球)
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田中 勉基本情報
国籍
日本
出身地福岡県大牟田市
生年月日 (1939-10-10) 1939年10月10日(84歳)
身長
体重178 cm
75 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1961年
初出場1961年8月16日
最終出場1969年9月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


福岡県立三池工業高等学校

東洋高圧大牟田

西鉄ライオンズ (1961 - 1967)

中日ドラゴンズ (1968 - 1969)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

田中 勉(たなか つとむ、1939年10月10日 - )は、福岡県大牟田市[1]出身の元プロ野球選手投手)。

1966年完全試合を達成するなど西鉄ライオンズの主力投手として活躍したが、中日移籍後の1969年以降にいわゆる「黒い霧事件」に関与したとして逮捕され、事実上の永久追放処分となった。
経歴
プロ入り前

1939年10月10日福岡県大牟田市で生まれる。小学2年生の時に野球を始め、中学時代は捕手で4番を打った[1]福岡県立三池工業高等学校在学時に投手へ転向[1]1957年全国高等学校野球選手権福岡大会に出場して準々決勝まで進むが、福岡県立小倉高等学校に敗れて甲子園出場は叶わなかった。

高校卒業後は社会人野球東洋高圧大牟田へ入社し、1960年の都市対抗に出場するが2回戦(初戦)で松下電器に惜敗する。翌1961年の都市対抗でも同じく初戦が2回戦となり、対日本鉱業日立戦に先発登板すると2安打に抑えて完封勝利。準々決勝では富士製鐵広畑のエース大工勝と延長12回を投げ合って引き分け、翌日の再試合でも6回から救援登板するが、先発の大工に完封負けを喫した。
西鉄時代

都市対抗野球での登板を評価され、1961年西鉄ライオンズへ入団する[1]。1年目は未勝利に終わるが、翌1962年には先発ローテーションの一角として6勝を挙げる。1963年には規定投球回に初めて到達して17勝8敗、防御率2.65(リーグ8位)、勝率.680の好成績を残し、最高勝率のタイトルを獲得、チーム5年ぶりのリーグ優勝に貢献した[1]日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では4試合に登板し、そのうち第2戦では先発するが1回に広岡達朗の放った打球が右足を直撃して早々に降板する。第4戦にも先発するが3回に制球の乱れから四球を出して先制され、この回限りで降板するなど結果を残せなかった。

その後は、肩を負傷した稲尾和久が中継ぎに配置転換されたことで先発投手陣の柱として活躍し、1966年5月12日の対南海ホークス戦(大阪球場)では史上9人目の完全試合を達成する[2]など、同年は23勝(12敗)を挙げて防御率2.34(リーグ7位)、217奪三振を記録して最多奪三振を獲得するとともに、ベストナインに輝いた。しかし、1967年に入るとこれまで武器としていたシュートの多投から肘を痛め、7月下旬から9月上旬までの約1ヶ月間に渡って戦線を離脱する。それでも復帰後は5勝を挙げ、シーズン全体では12勝、防御率2.17(リーグ4位)の好成績を残した。

シーズン終了後の契約更改において、田中は自身の父親に代理人を依頼する。交渉の場で父親は、息子が肘を負傷している中での監督の中西太の起用法への不満を語り、現在の首脳陣の中では息子を働かせられないと発言する[3]。結局、西鉄は田中の放出を決定し、広野功との交換トレード中日ドラゴンズへ移籍した[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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