田中優子
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女優の「田中裕子」、声優の「たなかゆうこ」、バレエダンサー・振付師の「田中祐子」、あるいは「田中祐子 (指揮者)」とは別人です。

たなか ゆうこ
田中 優子
生誕 (1952-01-30) 1952年1月30日(72歳)
神奈川県横浜市
国籍 日本
出身校法政大学大学院人文科学研究科・文学部修士課程修了
職業江戸文化研究者
肩書き法政大学第19代総長
栄誉芸術選奨文部科学大臣賞
紫綬褒章
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田中 優子(たなか ゆうこ、1952年(昭和27年)1月30日 - )は、日本江戸文学江戸文化・比較文化研究者エッセイスト法政大学社会学部学部長、同大学第19代総長を経て、同大学名誉教授、同大学江戸東京研究センター特任教授。
経歴

相鉄本線西横浜駅に近い商店街で生まれ育つ。父は東京出身の空調技師で、母は横浜生まれ。兄と同じく横浜市立本町小学校越境入学し、バスで通学。読書好きで志賀直哉を愛読していた。清泉女学院中学校・高等学校に入学後、バスケットボール部に入り、読書のジャンルを天文学SFにも広げ、高校では構内雑誌の編集を始め、カメラにのめり込み、写真部を創設した。東京大学に入って全共闘に参加していた兄の影響を受け、文化祭の発表では『共産党宣言』を取り上げた。だが、おおらかな雰囲気の清泉女学院では、教師は叱るわけではなく、「困ったわねぇ」と言うだけだった[1]
大学入学と学生運動への参加

清泉女学院高校時代の国語教師の助言で興味を持った法政大学文学部日本文学科に合格し、1970年(昭和45年)入学。語学を学ぶために語学専門学校アテネ・フランセと日仏学院にも通った。入学当時は全国的にも学生運動家らによる内ゲバ事件が多発していたことで、学生運動自体が下火になっていた時期であったものの、高校時代から関心があった全共闘に参加したことについて、迷いは無かったと語っている。田中は成田空港反対運動のあった三里塚にも行って、三里塚闘争にも参加した。日本共産党組織民青セクトを、誰が聞いても同じ意見を述べる教条的で「自分の善良さをアピール」しているように見えたと批判する一方で、ノンセクト(党派に属さない新左翼)は、個々人が自分の言葉を持っていたと評価している[2]

小田切秀雄ゼミで石川淳を読み始め、その小説や評論により、江戸文学にある「やつし」「見立て」を通して江戸文化を学習した。大学院に進み廣末保の元で学び、江戸文学、特に上田秋成について研究。博士課程在学中に大学院の先輩と結婚し、休学して夫の留学先であるニューヨークで生活する。帰国後に専任講師となって多忙となり、3年後に離婚。
離婚以後

1980年(昭和55年)に法政大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得満期退学し、法政大学第一教養部専任講師となる。 1983年(昭和58年)に法政大学第一教養部助教授へと昇進し、『平凡パンチ』『流行通信』でエッセイの連載を始める。筑摩書房の編集者に江戸文化の本の執筆を勧められ、平賀源内と上田秋成を中心に、『江戸の想像力』を執筆。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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