田中上奏文
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天皇への田中のその他の上奏(奏上)については「田中義一#張作霖爆殺事件」をご覧ください。

田中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期に中国を中心に流布した偽書である[1]

第26代内閣総理大臣田中義一1927年昭和2年)に昭和天皇へ「極秘に行った上奏文」の翻訳であるとされ、〈中国の征服には満蒙(満州蒙古)の征服が不可欠で、また世界征服には中国の征服が不可欠〉との内容であったため、日本による世界征服の計画書だとされた。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorial[1]

出回りだした当時から日本側では偽書であると考えられており、当初は中華民国で流布しているとして日本政府は民国政府に抗議を行った結果、民国政府の機関紙『中央日報』で真実の文書ではないと報じた。しかし1930年代には日中関係悪化にともなって反日プロパガンダに利用されるようになり、日本は国際連盟などでも答弁を求められることとなった。しかし各国は中国を支持し、日本は国際社会で孤立し、外交的に敗北を喫することとなった[2]。またアメリカのプロパガンダ映画『バトル・オブ・チャイナ』でも日本の侵略計画の根拠であるとされ、戦後には東京裁判においても一時は審理対象として証拠申請されたこともあった(証拠採用はされなかった。詳細後述)。

田中上奏文の作成経緯については、王家ソ連によるとの説、日本軍人の談話を基にしたとの説など諸説がある[3]

また、内容については、上奏が行われたとされる1927年当時にはすでに死去していた山縣有朋(1922年死亡)が文中に登場するなど、明らかな誤謬があり、とても官僚がまとめた文章とは思えないとの指摘がある。

歴史家のジョン・ダワーは、当時効果を発揮した見事なプロパガンダ文書であったことに現在のほとんどの学者が同意していると述べている[1]。しかし、いまだに偽書ではないとする者も日本国外には一部存在している[4][5]
時代背景

1927年昭和2年)3月24日?介石国民革命軍は南京に入城し、外国領事館を襲撃する南京事件が発生する。この南京事件はのちにコミンテルンミハイル・ボロディンらによる工作であると判明する[6]が、同年4月3日には日本人居留民が襲撃される漢口事件が発生した。こうした事件を受けて幣原喜重郎外相の協調路線は軟弱であると批判され、1927年4月20日田中義一政友会内閣が成立。田中は対中外交を積極方針へと転じ、5月末から6月にかけて居留民保護のために山東出兵を行った。

6月27日から7月7日にかけて外務省・軍関係者・中国駐在の公使・総領事などを集めた対中政策についての東方会議が東京で行われた。これは田中内閣のもとで外務次官となった森恪が実質的に組織した。森は満蒙政策強硬論者であり、遼寧省吉林省黒竜江省東三省を中国から分離する方針が反映したものであった。7月7日に「対支政策要綱」が発表された。要綱では、自衛を理由に武力行使を辞さないこと(第五条)、日本は東三省、満蒙に「特殊地位」があること(第七条)、動乱が満蒙に波及した場合は「適当の措置に出づるの覚悟あるを要す」とあった(第八条)。

日本軍による山東出兵が行なわれるなか、日本軍の進出に対して北京政府直隷派周蔭人らは青島奪還を計画。他方、北京政府奉天派張宗昌はこれを討伐しようとした。しかし中国では山東出兵は中国主権を剥奪する侵略的野心を蔵するものと解され、特に奉天において、「東方会議の結果および田中内閣の満蒙積極政策反対」のスローガンをかかげた反日運動が行われた[7]

その後、1928年には済南事件張作霖爆殺事件が起こり、1929年(昭和4年)7月に田中内閣は張作霖爆殺事件の責任者処分に絡んで総辞職した。同年9月に田中は死去している。
文書の出現と流布

このような時代背景の中、田中上奏文が作成されたが、いつから流布していたのかは不明である。
日本政府による文書の認知

日本政府は1929年(昭和4年)9月に田中義一が上奏したという国策案なるものを入手、それを中国政府が第3回太平洋会議(京都会議)に提出しようとしているという情報をつかんだ。

しかし、外務省亜細亜局長有田八郎は、この文書に誤りを見出した。上奏が内大臣ではなく宮内大臣を経由している記述、九カ国条約に対する打開策協議に死んだはずの山縣有朋が参加しているという内容、田中義一の欧米訪問やフィリピンでの襲撃事件の記述などの誤りである。そこで、会議において田中上奏文が偽書であることを暴露しようとした[8]。しかし、日華倶楽部によると、他国側よりの勧告があり、中国は提出を見合わせたという。これが、田中上奏文の存在が確認された最初ということになる。日華倶楽部が邦訳した田中上奏文の4つの序文のうちの1つに(民国)18年(1929年)9月という日付がある。
南京での中国語での雑誌発表


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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