田中マルクス闘莉王
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田中 マルクス .mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}闘莉王(トゥーリオ)

日本代表での田中マルクス闘莉王(2008年)
名前
本名同じ
愛称闘莉王[1][2]
カタカナタナカ マルクス トゥーリオ
ラテン文字TANAKA Marcus Tulio
出生名マルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ
Marcus Tulio Lyuji Murzani Tanaka
基本情報
国籍 ブラジル(1981 - 2003)
日本(2003 - )
生年月日 (1981-04-24) 1981年4月24日(43歳)
出身地 ブラジル
サンパウロ州パルメイラ・ド・オエスチ
身長185cm[3]
体重85kg[3]
選手情報
ポジションDFCB
FWCFST
MFDM
利き足右足
ユース
1997 ミラソウFC
1998-2000 渋谷教育学園幕張高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
2001-2003 サンフレッチェ広島 39 (2)
2003→ 水戸ホーリーホック(loan) 42 (10)
2004-2009 浦和レッズ 168 (37)
2010-2015 名古屋グランパス 181 (36)
2016 名古屋グランパス 7 (0)
2017-2019 京都サンガF.C. 92 (19)
通算529 (104)
代表歴
2004 日本 U-237 (0)
2006-2010 日本43 (8)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

田中 マルクス 闘莉王
YouTube
チャンネル

闘莉王TV

活動期間2020年3月24日 -
ジャンルサッカー
登録者数8.08万人
総再生回数約1,530万回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002022-11-24-00002022年11月24日時点。
テンプレートを表示

田中 マルクス 闘莉王(たなか マルクス トゥーリオ、ブラジル名:マルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ;Marcus Tulio Lyuji Murzani Tanaka、1981年4月24日 - )は、ブラジルサンパウロ州パルメイラ・ド・オエスチ出身の元プロサッカー選手YouTuber。現役時代のポジションはディフェンダーセンターバック)だったが、フォワードとして起用されることもあった。元日本代表

父親が日系ブラジル人で、母親がイタリア系ブラジル人2003年に日本に帰化した[4]2006年のJリーグ最優秀選手賞(MVP)受賞者。
来歴
生い立ち

生まれて初めて喋った言葉は「ママイ(お母さん)」「パパイ(お父さん)」「ボーラ(ボール)」だったという[5]。その言葉どおり、物心ついたときには既にボールを蹴っていた[5]

1989年1月、オレステス小学校入学[6]。当時の担任教師によれば「優しい子で、困っている友達を見ると放っておけない性格だった」「勉強が得意で、努力家で、学業成績が良かった。水泳も得意で、学校の水泳大会ではいつも優勝していた。」という[7]。ただし本人は「数学は得意だったけど、国語は苦手だった。友達と喧嘩することも多かった」と回想した[7]。サッカーを本格的に始めたのは9歳の時で、ボランティア活動で子どもたちにサッカーを教えていたコーチが近所に引っ越してきたことがきっかけ[8]。そのサッカー教室へ通い上達していった[9]。しだいに少年チームだけでは物足りずに父親の試合について行き、大人に混じってサッカーをすることもあった[9]

中学時代は「自分の人生に責任を持つ人間に育ってほしい」という父親の厳しい教育方針のもと[10]、昼間は会計事務所で働き、夜間はオレステス中学校夜間部へ通う生活を送った[10]。中学校では体育教師の熱心な勧誘でバレーボール部に所属してエースアタッカーとして活躍し、地区大会で優勝するほどであった[11]。また数学教師の推薦でオレステス中学校代表としてブラジル数学オリンピックに出場し、全国大会にまで進んだ経歴も持つ[12]。中学時代に本格的にサッカーをやっていなかったプロ選手はほとんど存在せず[12]、この時期にサッカーから離れていたトゥーリオは非常に珍しい存在であった[12]

1997年、人に勧められて受けたミラソウFCのセレクションに合格し、その頃からプロサッカー選手を目指すようになった[13]。その1ヶ月後の1998年1月、留学生を探しにミラソウFCを視察していた千葉県の渋谷教育学園幕張高等学校のサッカー部監督・宗像マルコス望に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われた[13]。1998年3月、カバン1つだけを持参して16歳で来日した[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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