産業経済新聞社
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.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}フジサンケイグループ > フジ・メディア・ホールディングス > 産業経済新聞社

株式会社産業経済新聞社
Sankei Shimbun Co., Ltd.
産経新聞東京本社(東京サンケイビル)
種類株式会社
略称サンケイ
本社所在地 日本
100-8077
東京都千代田区大手町一丁目7番2号
(東京サンケイビル)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分13.1秒 東経139度45分55.9秒 / 北緯35.686972度 東経139.765528度 / 35.686972; 139.765528座標: 北緯35度41分13.1秒 東経139度45分55.9秒 / 北緯35.686972度 東経139.765528度 / 35.686972; 139.765528
設立1955年昭和30年)2月15日[注 1]
業種情報・通信業
法人番号4010001017427
事業内容日刊新聞・書籍・雑誌の編集・発行
代表者近藤哲司(代表取締役社長)
資本金31億72百万円
発行済株式総数6,344,397株
売上高連結:783億97百万円
単独:509億45百万円
(2022年3月期)
営業利益連結:8億10百万円
単独:6億08百万円
(2022年3月期)
純利益連結:19億48百万円
単独:19億42百万円
(2022年3月期)
純資産連結:198億66百万円
(2022年3月31日現在)
総資産連結:738億95百万円
(2022年3月31日現在)
従業員数1,557人(2023年3月31日現在)
決算期3月31日
主要株主フジ・メディア・ホールディングス 39.99%
サンケイビル 5.37%
みずほ銀行 3.25%
王子製紙 2.45%
三菱UFJ銀行 2.30%
東急 1.89%
日本製鉄 1.86%
三井住友銀行 1.83%
大王製紙 1.71%
日本製紙 1.61%
(2019年4月1日現在)
関係する人物前田久吉(創業者)
水野成夫(元代表取締役社長)
鹿内信隆(元代表取締役社長・会長)
近藤俊一郎(元取締役副会長)
外部リンクwww.sankei.jp
特記事項:フジ・メディア・ホールディングスの持分法適用会社
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株式会社産業経済新聞社(さんぎょうけいざいしんぶんしゃ、: Sankei Shimbun Co., Ltd.)は、フジサンケイグループ新聞社出版社である。

産経新聞サンケイスポーツ夕刊フジの各発行及びニュースサイト産経デジタル」の運営元で、フジ・メディア・ホールディングス持分法適用会社である。通称は産経新聞社(さんけいしんぶんしゃ)。大阪朝日新聞社(現在の朝日新聞大阪本社)、大阪毎日新聞社(現在の毎日新聞大阪本社)とともに大阪発祥の新聞社であるが、現在は登記上の本店を東京に置く。
沿革1955年3月10日、9階建ての新社屋「東京産経会館」が開館。完成間もない頃の編集局[1]1955年3月頃。植字作業室[1]『サンケイグラフ』1955年1月30日号週刊サンケイ』1967年8月21日号

1913年大正2年) - 大阪府西成郡(現在の大阪市西成区)で前田久吉新聞販売店を創業する。

1922年(大正11年)7月9日 - 旬刊『南大阪新聞』を創刊する。

1923年(大正12年) - 『南大阪新聞』を『夕刊大阪新聞』と改めて日刊とする。

1933年昭和8年) - 夕刊大阪新聞社から、現在の産経新聞の前身にあたる『日本工業新聞』を創刊する。

1939年(昭和14年) - 『日本工業新聞』の発行元を夕刊大阪新聞社から分社化し、株式会社日本工業新聞社を設立する。

1940年(昭和15年) - 日本工業新聞、大阪毎夕新聞と鉄鋼新聞(現・日刊産業新聞)を合同。同時に両紙の発行会社を吸収合併。

1942年(昭和17年)

『夕刊大阪新聞』と『大阪時事新報』が合併して『大阪新聞』を発刊する。

政府の新聞統制で『日本工業新聞』など愛知県以西の西日本の産業経済関係の新聞社33社が合同し、株式会社産業経済新聞社を設立して『産業経済新聞』を発刊する。


1947年(昭和22年) - 旧鉄鋼新聞社のスタッフが独立し『日刊産業新聞』を創刊。

1950年(昭和25年) - 東京で『産業経済新聞』の印刷と発行を開始して東日本へ進出し、全国紙の基盤を成す。

1951年(昭和26年) - 世界経済新聞社を吸収して合併する。

1952年(昭和27年)

大阪本社が社屋とする産経会館が、大阪市北区梅田二丁目に完成する。後年に大阪サンケイビルとなる。

第1回ミス・ユニバース日本大会を開催。小島日女子を日本代表としてアメリカに派遣する[2]


1955年(昭和30年)

2月 - 東京支社を分社して、株式会社産業経済新聞東京本社を設立する。信越放送社長・元中部日本新聞社常務勝田重太朗を社長に迎える。

3月10日 - 東京本社が社屋とする東京産経会館が、東京都千代田区大手町一丁目に開館[1]

11月 - 東京で発行する産業経済新聞が『時事新報』と合同し、題号を『産経時事』とする。

月日未確認 - 『サンケイスポーツ』を大阪で創刊する。


1956年(昭和31年)

9月 - 初のミス・ワールド日本大会を開催。戸倉緑子を日本代表としてイギリスに派遣する[2]


1958年(昭和33年)

7月 - 東京進出により債務過多、経営危機に陥り、住友銀行(現:三井住友銀行)の支援を受ける。東京の題号を『産經新聞』に変更する[注 2]

8月 - 前田が社長を退任。富士テレビジョン(現・フジテレビジョン)・文化放送社長の水野成夫を社長、中部日本新聞社社長の与良ヱを副社長に迎える。

月日未確認 - 『日本工業新聞』を復刊する。


1959年(昭和34年)

2月 - それぞれ別法人であった東京と大阪の両本社を合併し、登記上の本店を大阪から東京へ移転して東京を存続会社とし、新生の株式会社産業経済新聞社が発足する。東京本社社長の勝田は退任し信越放送社長に復帰する。

2月 - 東京と大阪の題号を『産經新聞』に統一する。

7月 - アメリカで開かれた第8回ミス・ユニバース世界大会で日本代表の児島明子が優勝する。アジア人初、歴代の欧米美人を超えるプロポーション(97-60-96)[3]

9月27日 - 号外を輸送していた航空機「おおとり号」が、故障により和歌山県田辺市沖合に墜落。乗員2人が死亡[4]

月日未確認 - 与良が副社長を退任、中部日本新聞社に代表取締役として復帰。


1960年(昭和35年)

6月 - 第1回ミス・インターナショナル日本大会を開催。高木美智子を日本代表としてアメリカに派遣する。以後、ミス・コンテスト事業から撤退。


1961年(昭和36年) - 皇太子成婚記念「大噴水」を皇居前に設置して国に寄贈する。

1963年(昭和38年)

『サンケイスポーツ』東京版を発刊する。

プロ野球球団「国鉄スワローズ」の経営に参加する(1964年(昭和39年)に、系列放送局・フジテレビでのテレビ中継を行うことを前提として、連盟登記上の本拠地を後楽園スタヂアムから明治神宮野球場へ変更する)。


1965年(昭和40年)5月10日 - 「国鉄スワローズ」の経営権を取得してプロ野球球団「サンケイスワローズ」とする(1966年(昭和41年)、球団名を「サンケイアトムズ」に変更)。

1967年(昭和42年) - フジテレビジョン、ニッポン放送文化放送と共に「フジサンケイグループ」を結成する。

1968年(昭和43年) - 水野成夫が会長から退き、鹿内信隆が社長に就任。

1969年(昭和44年)

プロ野球団・「サンケイアトムズ」にヤクルト本社が資本参加し、「アトムズ」と改める。

『夕刊フジ』を創刊する。

題号を『サンケイ』に変更する。


1970年(昭和45年)

1月、プロ野球団「アトムズ」の経営権をヤクルト本社に譲渡、「ヤクルトアトムズ」と改めたうえで経営面から事実上撤退(ただし、引き続き球団の後援関係は維持[注 3])。

サンケイスポーツの発行元を株式会社サンケイスポーツ新聞社、『夕刊フジ』の発行元を株式会社フジ新聞社、とそれぞれ分社する。


1985年(昭和60年)

鹿内信隆が社長から退き、新たに鹿内の子息である鹿内春雄が会長職に就く。植田新也が社長に就く。

フジサンケイグループの結束を強化するため、統一シンボルマークとして目ん玉マークを採用する。


1986年(昭和61年)5月4日 - 創業者の前田が死去する。

1987年(昭和62年)

サンケイスポーツ東京版の紙面をカラー刷りにする。

サンケイスポーツ新聞社とフジ新聞社を吸収してサンケイ新聞本体に合併する。


1988年(昭和63年)

4月16日 - 鹿内春雄が死去し、鹿内信隆の娘婿・鹿内宏明が会長を継ぐ。

題字を『サンケイ』から『産經新聞』に変更し、一般紙で初めてカラー紙面とする[注 4]


1990年平成2年)10月28日 - 鹿内信隆が死去する。

1992年(平成4年) - 日枝グループにより鹿内宏明が会長職を解任される。

1997年(平成9年) - 専務取締役・清原武彦が社長に就く。

2000年(平成12年)9月 - 東京本社の東京サンケイビルが再開発、新しい東京サンケイビルが完成する。

2002年(平成14年)

産経新聞の東京本社版が夕刊を廃止し、朝刊単独紙へ移行する。

大阪新聞が廃刊し、産経新聞の大阪本社版と紙面を統合する。


2004年(平成16年)

3月1日 - 日本工業新聞が『フジサンケイ ビジネスアイ』に題号を変更する。

6月29日 - 専務総括主筆の住田良能が社長に就き、清原は会長職に就く。

月日未確認 - 大阪新聞社を吸収して合併する。


2005年(平成17年) - 大阪本社の新社屋である難波サンケイビルが完成する。

2006年(平成18年)11月1日 - タブロイド紙『SANKEI EXPRESS』を創刊する。

2008年(平成20年) - 九州地方で、産経新聞の現地印刷と災害時の委託印刷を毎日新聞の工場が請け負うことを、毎日新聞社と基本合意する。

2009年(平成21年)

4月1日 - 福岡市中央区の九州総局内に「九州・山口本部」を設置する。

7月1日 - 日本工業新聞社を吸収して合併する。

10月1日 - 産経新聞九州・山口特別版を発刊する。


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