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裁判所から退廷するマーガレット・サンガー(1917年)
産児制限(さんじせいげん、英:Birth control)とは、人為的に妊娠、出産、育児を制限することである[1]。産児制限の手段としては、不妊手術ないしは断種、避妊、人工妊娠中絶、幼児殺人(間引き)がある。1920年代にアメリカで社会運動化し世界に波及した。
背景産児制限の先駆者マーガレット・サンガー(1922年)
「Birth Control(バースコントロール)」という表現は、米国のマーガレット・サンガーが当時看護師だった1914年に創刊した著書のなかで、初めて使用されたといわれている。産児制限が行われる背景として、個人の自由意志のほか、家庭の貧困による決断や母体
や胎児における医学的な理由がある。また、場合によっては社会の生産性の限界(食糧不足等)などにより、個人の意思に関わらず行われることがあり、人権に深く関わる問題として捉えられている(後述)。1950年代に欧米の人口学では遠からず世界規模の人口爆発が発生すると予測し、それによって貧困化する第三世界の共産化を防止するという動機から[2]、ローマ・クラブやアメリカの実業家を中心として人口抑制計画が議論され、日本や韓国などのアメリカの影響下にある国や、インドなどの旧植民地など、人口増加が予測されるアジア諸国で政策として家族計画の啓蒙や産児制限が行われた[2]。特に1974年12月にヘンリー・キッシンジャーの下で、アメリカ国家安全保障会議は「国家安全保障課題覚書200(英語版)」、いわゆる「キッシンジャー・レポート」を作成した。開発途上国の人口爆発は現地政権の基盤を不安定なものとし、引いては米国の安全保障の懸念材料となりうるため、米国政府に対し、発展途上国に対して人口抑制に関する開発援助を実施するよう提言していた[3]。中華人民共和国で1979年から行われた「一人っ子政策」も、ローマ・クラブの人口計画の影響を受けたものである[2]。
文化的・社会的な要求として、就労機会の多寡や家事労働力などの点で女性よりも男性の社会的価値が高いと見なされている社会や、女性を育てることが将来的負担につながると予測される社会では、合理的な判断として男女産み分けのための産児制限が行われている[2]。男女産み分けは、経済成長に伴って出生率が低下し、子供に期待される価値が高くなった地域では、より顕著となっている[2]。
自然状態でも妊娠はある程度コントロールされている。例えば、母体の栄養状態が悪化すると排卵は抑制され、妊娠中は排卵しない。乳房を吸わせて授乳している間も排卵しにくい(無月経、母乳栄養参照)が、それだけでは不足する場面が多い。性科学に述べられているように、生殖以外に性行動を行うのはヒトの重要な特徴の一つである。性生活を十分楽しみ、同時に妊娠出産に計画性を持たせたい場合、産児制限が必要となる。殊にかつての多産多死(子供がたくさん生まれ、幼いうちに沢山死ぬ)から少産少死(出生率と乳幼児の死亡率が同時に減少する)に移行した先進国においては避妊法が広く普及している。 日本の産児制限運動 日本の産児制限運動には、マーガレット・サンガーの思想と活動に強く影響を受けていた。 日本では、間引き及び堕胎(人工妊娠中絶)が暗然と行われてきたが、明治政府は両者を法律で禁じた(堕胎罪参照)。また産児制限にも冷淡であり、特に当時は富国強兵政策の一環として「産めよ殖やせよ」政策を取っていた。 1937年には、産児制限が「国体維持に反する可能性がある」として警察が石本(加藤)シヅエを連行、その隙に産児制限相談所を家宅捜索しカルテ等を持ち出した。その結果産児制限相談所は閉鎖に追い込まれた(もっとも、避妊を公然と普及させることには洋の東西を問わず抵抗が強く、マーガレット・サンガーも1914年に米国においてコムストック法(猥褻郵便物禁止法)で起訴され、1916年に産児制限診療所を開設したところ逮捕され懲役刑に処された経緯がある。)。 一方、日本陸軍は各国軍と同様、慰安所を利用する兵士に「突撃一番」と称するコンドームを支給し性病の流行と慰安婦の妊娠を予防した。
19世紀における避妊
日本における産児制限運動
マーガレット・サンガーと石本静枝(1922年)
目的避妊具の普及
労働者家庭の生活改善
人口問題の解決
女性の解放
権利リプロダクティブ・ヘルス・ライツ
女性の権利
年代1918年 ? 1960年代
主導者加藤シヅエ
山本宣治
安部磯雄
初期の書籍等『産児調節評論』
『産児制限論』
『性と社会』
団体日本産児調節連盟
日本家族計画協会
家族計画国際協力財団
法律国民優生法
優生保護法
歴史
年譜
日本における受胎調節(避妊・家族計画)年譜
1869年(明治2年) - 堕胎禁止令発布。
1880年 - 堕胎罪制定。
1907年 - 現行刑法の堕胎罪制定。
1909年 - 国産コンドーム発売。
1922年 - 3月10日、マーガレット・サンガー来日。
各地に受胎調節相談所、産児調節研究会発足。5月、石本恵吉・安部磯雄ら、日本産児調節研究会設立。
1924年 - 荻野久作、「人類黄体の研究」学説発表。
1929年 - 山本宣治、暗殺される(産児制限運動に参加。1922年のサンガー来日時に通訳を務める)。
1931年 - 荻野久作、上記研究を応用した受胎調節法を発表。いわゆるオギノ式避妊法のおこり。
1932年 - 太田リング発明(1930年のグレーフェンベルグ・リング発明をうけ)。
1934年 - ラテックス製コンドーム開発。
1936年 - 避妊リング(IUD)、有害避妊器具に(厚生省の許可は1974年)。
1937年 - 母子保健法制定。産児調節運動弾圧。
1938年 - 内務省警保局「婦人雑誌に対する取り締まり方針」。
1940年 - 国民優生法成立。
1941年 - 厚生省「人口政策要綱」。産めよ殖やせよ運動開始。
1948年 - 優生保護法成立。
エーザイ、「サンプーンループ」(女性用殺精子剤)発売。