生類憐れみの令
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当時中野犬小屋の区域に含まれていた、中野区役所前に建立されたモニュメント

生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代前期、江戸幕府の第5代将軍・徳川綱吉によって制定された「生類を憐れむ」ことを趣旨とした動物・嬰児・傷病人保護を目的とした諸法令の通称[1][2][注釈 1]。1本の成文法ではなく、綱吉時代に行われた生類を憐れむことを趣旨とした諸法令の総体である[3]

保護する対象は、捨て子[注釈 2]や病人、高齢者、そして動物である[4]。対象とされた動物は、犬、猫、鳥、魚、貝、虫などにまで及んだ。

漁師の漁は許容され、一般市民はそれを買うことが許されたとの説もある。
政策開始の理由

貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[5]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[6]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている[7]

根崎光男はまた、天和3年(1683年)に綱吉の子・徳松が5歳で病死しているが、この頃から死や血の穢れを意識した政策である服忌令の制定が進められており、子の死によって綱吉の思考に、生類憐れみの観念が助長されていったとみている[8]

かつては跡継ぎがないことを憂いた綱吉が、母桂昌院が帰依していた隆光僧正の勧めで発布したという説が知られていた。ただし、隆光を発端と見る説は近年後退しつつある[3]。この説は太宰春台が著者ともされる『三王外記』によるものであるが、隆光が知足院の住侍として江戸に滞在するようになった貞享3年(1686年)以前から、生類憐れみ政策は開始されている[9]

塚本学は綱吉個人の嗜好に帰すのではなく、当時の社会状況に対する一つの対策であったと指摘している[2]
生類憐れみ政策のはじまり

一連の生類憐れみ政策がいつ始まったかについても議論がある。塚本学はいつから始まるかは明確にできないとしているが、主な初発の時期とされるものには以下の説がある。

天和2年(1682年)10月、犬を虐殺したものを極刑にした例。辻達也はこれを生類憐み政策のはしりとしている[1]。ただし、寛文10年代にも許可なく犬を殺すものは処罰の対象であり、犯人は追放や流罪に処されており、各藩においても犬殺しは重罪であった[10]

貞享元年(1684年)、会津藩は老中から鷹を献上する必要がないという通達を受けているが、この際に幕府が「生類憐乃事」を仰せだされた時期という言及がみられる。根崎光男はこの記述から貞享元年5月から6月ごろにかけて、何らかの生類憐れみに関する政策が打ち出されていたと見ている[11]

貞享2年(1685年)2月、鉄砲領主の許可なしに使用してはならないという法令[12]

貞享2年7月14日、将軍の御成の際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令[12]。2005年頃からは最も支持されている[12]

貞享4年(1687年)、病気の牛馬を捨てることを禁じた法令[12]。この法令が初発であるという説が長い間定説化していた。

少数ではあるが、徳川家綱時代から生類憐れみ政策が行われていたという見解も存在する[12]
運用

山室恭子は『黄門さまと犬公方』(1998年)において、24年間、生類憐れみの令で処罰された記録を調査し、確認できた69件の事例をあげている。うち極刑となったものは13件で、前期に集中している。

処罰の事例は『鸚鵡籠中記』や『三王外記』などの当時の記録に存在しており、後に徳川実紀にも引用されているが、根拠が疑わしいものも多く存在する。『御当代記』には「2つある噂のひとつとして」、蚊を殺したために小姓の伊東淡路守が閉門となったという記述があるが、歴史書の中にはこれを事実として扱っているものもある[13]

徳川家康鷹狩を好んだが、鷹狩もこの政策により禁止され、また鷹狩の獲物などの贈答も禁じられた[14]

地方においても生類政策の影響は及んだ。馬の保護に関する法令については老中が各藩に対して通達を行い、これをうけた薩摩藩は当時支配下においていた琉球王国にも通達している[15]。ただし運用はそれほど厳重ではなかった地域もある。『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ「殺生」を重ねていた[16]

また長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかったとみられている。長崎町年寄は、元禄5年(1692年)および元禄7年(1694年)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出しているが、その通達の中でも、長崎にいる唐人オランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていた[17]。江戸城では貞享2年から鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じているが、公卿に対する料理としては使うことを認めている。これは生類政策よりも儀礼を重視したためとみられている[18]

特にを保護したとされることが多く、綱吉が「犬公方」と呼ばれる一因となった。徳川綱吉が丙戌年生まれのためともされる。
廃止

宝永6年(1709年)正月、綱吉は死に臨んで世嗣の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう言い残したが、同月には犬小屋の廃止の方針などが早速公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制も順次廃止されていった[1]

ただし、牛馬の遺棄の禁止、捨て子や病人の保護など、継続した法令もある。また、将軍の御成の際に犬や猫をつなぐ必要はないという法令は綱吉の死後も続き、8代将軍・徳川吉宗によって廃止されている[12]。鷹狩が復活したのも、吉宗の代になってからである[14]。家宣の生類憐みの令を撤回したのを農民は喜んでいた。
評価

生類憐れみの令は庶民の生活に大きな影響を与えたため、「天下の悪法」と評価されることが多く[1][19]、綱吉への評価を下げる原因となった。現在でも、極端な理想主義の法律・法案などに対する批判として、「現代の生類憐れみの令」のように揶揄の対象にもなる。

綱吉死後の政権に関与した新井白石は、『折たく柴の記』などで生類憐れみ政策を批判している。


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