生田長江
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生田長江
1903年頃
ペンネーム生田長江
誕生生田弘治
1882年4月21日
鳥取県日野郡根雨町
死没1936年1月11日
東京市渋谷区
墓地鎌倉市長谷寺 (鎌倉市)
職業評論家翻訳家小説家劇作家
国籍 日本
活動期間1906年 - 1936年
代表作文壇批評、社会時評、ニーチェ全集(翻訳)
デビュー作小栗風葉論(1906)
配偶者1907年、亀田藤尾(1883年 - 1917年)
子供まり子(1913年 - )
影響を受けたもの

馬場孤蝶上田敏夏目漱石森?外ダンヌンツィオニーチェなど

影響を与えたもの

佐藤春夫生田春月平塚らいてうなど

公式サイト ⇒生田長江顕彰会
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生田 長江(いくた ちょうこう、1882年明治15年)4月21日 - 1936年昭和11年)1月11日)は、日本評論家翻訳家劇作家小説家
経歴

父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。

本名は弘法大師(空海)に因んだ「弘治」ながら、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。

一高時代から雑誌へ投稿し始め、大学時代の1904年には上田敏馬場孤蝶の『藝苑』誌の同人となり[1]、上田から「長江」の号を貰った。

1906年(明治39年)(24歳)、東大を卒業し、1907年、鳥取県の亀田藤尾と結婚して与謝野鉄幹晶子夫妻の隣に暮らし、麹町区飯田町にあった成美英語女学校の英語教師を、1909年の閉鎖まで勤めた。

この頃の数年間、女性の文学の振興に努めた。1907年夏、一高以来の付き合いである森田草平と、成美英語女学校の経営主、九段中坂下(現・千代田区九段)のユニヴァーサリスト教会で、女性のための文学講習会『閨秀文学会』を開いた。馬場孤蝶、与謝野晶子、赤司繁太郎らが講義し、大貫かの子青山菊栄平塚らいてうらが聴講したが、年内に閉講した。

1909年から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を翻訳し、1911年年初に刊行した。その9月に創刊した平塚らいてうらの『青鞜』誌を、1913年まで後押しした。生田春月佐藤春夫を門弟とした。

1914年(大正3年)(32歳)、初めは森田草平と共同編集で、『反響』誌を創刊した。翌年の同誌の廃刊後、ニーチェ全集の翻訳を志し、1916年から1929年までに、全10巻を出版した(訳書の項参照)。

また、1914年頃から堺利彦大杉栄と交わり、批評の目を社会問題へも広げた。1916年、『自然主義前派の跳梁』(『新小説』1916年11月)などで、『白樺派』を論難した(武者小路実篤は『時事新報』11月5日-11月7日に「生田長江氏に戦を宣せられて一寸」を発表した)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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