なませ かつひさ
生瀬 勝久
本名生瀬 勝久
別名義槍魔栗 三助(旧芸名)
生年月日 (1960-10-13) 1960年10月13日(63歳)
出生地 日本 兵庫県西宮市
身長178 cm
血液型O型
職業俳優、タレント、司会者
ジャンル映画、テレビドラマ、舞台
活動期間1982年[1] -
配偶者堀本陽子
所属劇団そとばこまち(1983年 - 2001年)[2]
事務所リコモーション
公式サイト生瀬勝久プロフィール
受賞
高崎映画祭
最優秀助演男優賞
2005年『お父さんのバックドロップ』
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生瀬 勝久(なませ かつひさ、1960年10月13日[3] - )は、日本の俳優、タレント、司会者。本名、同じ[4]。旧芸名、槍魔栗 三助(やりまくり さんすけ)[4]。
兵庫県[3]西宮市出身[2][5]。兵庫県立宝塚高等学校[5]、同志社大学文学部社会学科(現在の社会学部社会学科)卒業[2]。リコモーション所属[2]。身長178cm[2]。体重70kg[2]。 学生のころは吹奏楽部でサックスを担当[6]。生徒会会長と駅伝の選手だった[6]。 高校時代は宝塚ファミリーランドでジュースを売るアルバイトをしていた[5]。高校卒業後に大学に入るために浪人をしており、そのころはお好み焼き屋でアルバイトをしていた[5]。 1980年、大学に入学[2]。同志社大学の劇団「第三劇場」に所属していた1982年に京都大学系の劇団「劇団そとばこまち」で2代目座長を務めていた辰巳琢郎にスカウトされ[1]、1983年に「そとばこまち」に入団、同年の『猿飛佐助』で初舞台を踏む[2][3]。学生時代は、槍魔栗 三助(やりまくり さんすけ)の名で「喜劇研究会」「第三劇場」そして「そとばこまち」で辰巳琢郎・川下大洋らとともに活動[7]、「第三劇場」ではマキノノゾミと交流があった。当時、ゼミの指導教授であった石田光男(後の同志社大学社会学部長)から「君は俳優に向いていないよ」と言われるが、後に石田は「先見の明」がなかったことを反省したという。1986年、大学を卒業[2]。 大学卒業時に企業から内定を得ていたにもかかわらず、それを辞退して演劇界に進む[5][8]。1988年には「そとばこまち」の4代目座長に就任し、劇作家、演出家も務める[2][3]。 1988年から1年間に亘って放送された讀賣テレビ放送の深夜のコント番組『週刊テレビ広辞苑』にて、漫画家のひさうちみちおらとともにレギュラー出演。当時からコメディアンとしての才能をいかんなく発揮して人気を呼び、『探偵!ナイトスクープ』では槍魔栗三助名義で探偵の初期メンバーの1人として出演、第1回放送から複数回続いた、1985年の阪神タイガース優勝の際道頓堀に投げ込まれ行方不明となったカーネル・サンダース像の捜索企画を手がけるなどした。以後も1989年の『現代用語の基礎体力』、1990年の『ムイミダス』、『未確認飛行ぶっとい』、など同じく読売テレビの深夜番組に続けて出演し、「劇団☆新感線」の古田新太や羽野晶紀、「売名行為」の立原啓裕、升毅、牧野エミらとともに関西学生演劇ブームを起こす一端となる。2008年3月8日・15日の2週に亘って20年前の製作スタッフ、キャストが再集結し『現代用語のムイミダス ぶっとい広辞苑』が讀賣テレビ放送にて放映された。 1988年のNHK連続テレビ小説『純ちゃんの応援歌』へのレギュラー出演を機に本名の生瀬 勝久へと改名する[4]。詳しくは後述。 1990年代半ばより全国区のテレビドラマに本格的に進出し[8]、役者としての活動の場を関西から全国に広げるため2001年に劇団「そとばこまち」を退団[2][3]。
来歴
学生時代
コメディアン、俳優へ