生江 恒山(いくえ の つねやま、生没年不詳)は、平安時代前期の人物。
貞観8年(866年)閏3月に応天門が火災によって焼失したが[1]、8月3日になって備中権史生・大宅鷹取が応天門の放火犯は大納言・伴善男と右衛門佐・伴中庸親子である旨を訴え出る[2]。伴中庸の指示を受けて、生江恒山は占部田主とともに大宅鷹取を殴傷し、その娘を殺害するが[3]、8月29日に捕縛されてしまう[4]。生江恒山と伴清縄は拷問を受けて、放火の実行犯が伴中庸であることを白状する[5]。闘訟律では殺人を犯した者は斬刑に処すべきところ、主犯は中庸と認定されて、恒山らは罪を一等減ぜられて、遠流に処せられた[6]。(応天門の変)
経歴
系譜
父:生江武恒または武員[7]
母:不詳
生母不詳の子女
男子:生江有世[8]
脚注^ 『日本三代実録』貞観8年閏3月10日条
^ 『日本三代実録』貞観8年8月3日条
^ 『日本三代実録』貞観8年10月22日条
^ 『日本三代実録』貞観8年8月29日条
^ 『日本三代実録』貞観8年9月22日条
^ 『日本三代実録』貞観8年10月25日条
^ 鈴木真年『百家系図』巻59,生江臣では、武恒の子に伴大納言の郎従として恒世を記しており、恒山は恒世と同人または兄弟と想定される(宝賀[1986: 422])。
^ 鈴木真年『百家系図』巻59,生江臣では、恒世の子とする。
参考文献
武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録 下巻』戎光祥出版、2009年
宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
更新日時:2016年4月3日(日)02:31
取得日時:2016/06/08 04:14