うぶかた あきら
生方 明
本名同
生年月日 (1917-02-12) 1917年2月12日
没年月日不詳年
出生地 日本 東京府東京市神田区神田(現在の東京都千代田区)
職業俳優、元子役
ジャンル新劇、劇映画(現代劇・時代劇、教育映画、サイレント映画・トーキー)
活動期間1923年 - 1950年
配偶者有
著名な家族生方賢一郎(実父)
主な作品
『雪崩』
『はたらく一家』
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生方 明(うぶかた あきら、1917年2月12日 - 没年不詳)は、日本の俳優、元子役である[1][2]。本名同じ[1][2]。 1917年(大正6年)2月12日、東京府東京市神田区神田(現在の東京都千代田区神田)に生まれる[1][2]。 1923年(大正12年)12月、渋谷幡代尋常小学校(現在の渋谷区立幡代小学校)1年生の時、築地小劇場で小山内薫演出『そら豆が煮えるまで
来歴・人物
映画では中学校1年から教育映画や1932年(昭和7年)に公開された、鈴木重吉監督映画『熊の出る開墾地』などに出演していたが、1934年(昭和9年)、父・賢一郎が在籍するP.C.L.映画製作所が製作した木村荘十二監督映画『只野凡児 人生勉強』に出演したのがきっかけで中学卒業直後の同年4月に入社[1][2]。1937年(昭和11年)には成瀬巳喜男監督映画『雪崩』で初主演を果たした。
しかし1939年(昭和14年)、戦局悪化により応召され盛岡陸軍士官学校に学び、1942年(昭和17年)に除隊[1]。東宝に復帰して、1944年(昭和19年)公開の今井正監督映画『怒りの海』や山本嘉次郎監督映画『加藤隼戦闘隊』に出演するも、同年に再び応召される[1][2]。1947年(昭和22年)に陸軍大尉で復員する[1]。1948年(昭和23年)、新東宝に入社して再復帰したが、1951年(昭和25年)に退社[1][2]。退社後は呉服店を経営していた[1]。1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優篇』では、存命人物として東京都世田谷区祖師谷の連絡先が示されているが、既に引退しており、以後の消息は不明である[1][2]。没年不詳。 特筆以外、全てサイレント映画である。 特筆以外、全て製作は「P.C.L.映画製作所」、配給は「東宝映画」、以降全てトーキーである。 特筆以外、全て製作は「東宝映画東京撮影所」、配給は「東宝映画」である。 特筆以外、全て製作・配給は「東宝」である。 特筆以外、全て製作・配給は「新東宝」である。
出演作品
初期
『二郎と其の母
『熊の出る開墾地』:監督鈴木重吉、製作不二映画社、1932年4月14日公開[1]
『昼寝も出来ない』:監督小沢得寿、製作映音商店、1932年7月14日公開 - その子 ※トーキー
P.C.L.映画製作所
『只野凡児 人生勉強』:監督木村荘十二、配給東和商事映画部、1934年1月5日公開
『あるぷす大将』:監督山本嘉次郎、1934年11月15日公開 ※ノンクレジット[1]
『坊つちやん』:監督山本嘉次郎、1935年3月14日公開 ※ノンクレジット[1]
『これは失礼
『雪崩』:監督成瀬巳喜男、1937年7月1日 - 弥生の弟・圭助
『禍福 前篇』:監督成瀬巳喜男、1937年10月1日公開 - 次男・昌二
『禍福 後篇』:監督成瀬巳喜男、1937年11月11日公開 - 次男・昌二
東宝映画東京撮影所
『阿部一族』:監督熊谷久虎、共作前進座、1938年3月1日 - 細川光尚
『藤十郎の恋』:監督山本嘉次郎、1938年5月1日公開 - 沢村長十郎(立役)
『太陽の子』:監督阿部豊、製作東京発声映画製作所、1938年5月18日公開 - 三村
『幼い英雄たち
『はたらく一家』:監督成瀬巳喜男、1939年3月11日公開 - 長男・希一
『忠臣蔵 前篇』:監督滝沢英輔、1939年4月21日公開 - 大石主税
『忠臣蔵 後篇』:監督滝沢英輔、1939年4月21日公開 - 大石主税
『誓ひの合唱』:監督島津保次郎、製作東宝映画、配給満州映画協会、1943年8月12日公開 - 井上一等兵
東宝
『愉しき哉人生
『加藤隼戦闘隊』:監督山本嘉次郎、配給映画配給社、1944年3月9日公開 - 新居中尉(加藤部隊)
『怒りの海』:監督今井正、1944年5月25日公開
新東宝
『鍋島怪猫伝
『帰国』(『ダモイ』):監督佐藤武、1949年11月22日公開 ※ノンクレジット[1]