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心理学における生得論(せいとくろん)または生得主義(せいとくしゅぎ、(英: nativism)は、特定のスキルや能力、学習や行動の傾向などが脳の中に元から備わっているとする考え方である。これと対照的なのが経験主義で、生まれたばかりの脳はタブラ・ラーサであって先天的なコンテンツは無く、環境から全てを学んでいくと考える。人間の一般的な行動や精神がどのようにして形作られていくかは20世紀以降「氏か育ちか」論争として継続されている。 生得論は哲学に由来する。提唱者はルネ・デカルトである。デカルトは、アリストテレスがその著書『霊魂論』において述べた経験主義的原則、すなわち、知覚によって対象から受け取った表象なしに人は思考することはできないという立場に反対し、精神を独立した実体と見て、精神自身の内に生得的な観念があり、理性の力によって精神自身をこれを展開可能であると見たのである。このような考え方の背景には、当時の飛躍的な数学、幾何学、自然学の発展があり、当時の人々は、誰がどのように考えても同一の結論に到達するというイデア的な観念の源泉を理性、つまり動物とは区別された人間の本性のうちに見たのである。 これに対して、ジョン・ロックとデイヴィッド・ヒュームは経験論の立場から反対した。特にヒュームは、人間は知覚入力のみから因果関係を推定できない、とする説得力のある論証を行った。人が推論できるのは、2つの事象が連続して起きるか、同時に起きるかといった程度である。この主張への反応として、経験では得られない因果関係などの概念が先天的に存在するはずだという仮説が生じた。 哲学者イマヌエル・カントは『純粋理性批判』の中で、人間の心は先天的すなわちアプリオリに客体(対象)を知ることができると推論した。カントは、人は生まれたときから全ての対象を順次(時間)および並列(空間)に経験しなければならないと主張した。彼の言う生得的なカテゴリは、心が対象一般に属性付ける述語である。アルトゥル・ショーペンハウアーはカントに賛同したが、生得的カテゴリの種類を因果だけにした。 ウィリアム・ジェームズは多くの人間の行動を本能と言う語で説明した。『心理学原理』では次のように述べた。「嬉しいとき我々はなぜ睨まずにほほえむのか?なぜ一人の友人と話すのと同じように群衆と話せないのか?なぜ若い女性は我々の心を揺さぶるのか?......それで、おそらく動物は特定の状況に直面したとき特定のことに向かう感覚がある」。これは精神分析の「無意識」に影響を与え、現代では認知科学によって再び光が当てられている。フランツ・ボアズは「証拠が見つかるまでは人間の行動に生得的な基盤はないと仮定すべきである」と主張したが、彼の弟子たちは「人間の行動に生得的な基盤はない」と言い換えた。 生得論とは非常に広い立場に対して用いられる語である。生まれたばかりの脳は空白の石版であり、どの方向にもどのような傾向も備わっていないと考えるのがタブラ・ラーサである。経験主義心理学以外に社会構成主義、極端な行動主義、構造主義哲学などが支持している。その対極には遺伝子決定論がある。この位置には実質的に誰もいない(例えば『遺伝的天才』を著したフランシス・ゴルトンも教育に意義を認めた)が、部分的には特定の遺伝子や神経構造と行動の関連を調べている神経科学者や神経行動学者が相当する。広義にはタブラ・ラーサを除いたあらゆる位置を生得論と呼ぶことができる。この広い意味の生得論者は人間の心、精神、行動の理解のために生物学的基盤の理解が必要だと考えている点で共通している。生得論は批判的な文脈ではしばしば遺伝子決定論と混同されるが、区別が必要である。またどの心的機能の生得性を論じているのかを区別する必要がある。 スティーブン・ピンカーは認知革命がタブラ・ラーサを否定したと考えている[1]。認知科学者は一般的にタブラ・ラーサを受け入れていない。その意味では生得論者であるが、どの脳機能にどの程度の生得性を認めるかでは議論がある。脳が無限の可能性を秘めていないことを指して生得的制約と呼ばれる。したがって(特に認知言語学では)生得的制約とはどのようなものかに関する議論が行われている。コネクショニズムはタブラ・ラーサに非常に近い位置にいる。彼らはしばしば他の立場を生得論者と呼んで批判するが、そのうちの一人ジェフリー・エルマン
哲学
心理学における生得主義