いくしま ひろし生島 ヒロシ
2007年撮影
プロフィール
本名生島 博
出身地 日本・宮城県気仙沼市
生年月日 (1950-12-24) 1950年12月24日(73歳)
血液型A型
最終学歴カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科
所属事務所生島企画室
職歴元TBSアナウンサー
活動期間1976年 -
ジャンル情報・バラエティ
配偶者既婚
著名な家族生島隆(次弟)
生島淳(末弟)
生島勇輝(長男)
生島翔(次男)
公式サイトプロフィール
生島 ヒロシ(いくしま ヒロシ 、本名:生島 博(読み同じ)、1950年〈昭和25年〉12月24日 - )は、日本のアナウンサー、タレント、総合司会者、芸能プロモーター、ファイナンシャルプランナー。東北福祉大学客員教授。プロダクション会社・生島企画室の最高経営責任者。元TBSアナウンサー(16期生)。
現在は東京都世田谷区在住。 宮城県気仙沼市出身[1]。宮城県気仙沼高等学校卒業後、法政大学経営学部に入学した[2]。20歳の夏の1971年、大学紛争を機に大学を中退して[3]単身で渡米した。 1975年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校ジャーナリズム科を卒業した[2]。1976年4月にTBS(現在のTBSHD。以下同じ)にアナウンサー16期生として入社(同期は鈴木順・高橋進・松宮一彦)[4][5][注釈 1]。入社3年目の1978年4月から1979年秋までTBSラジオの夜ワイド『生島ヒロシの夜はともだちII(セカンド)』を担当し、人気を得る。また30歳の時にテレビに進出し、『そこが知りたい』内のコーナー「各駅停車路線バスの旅」や『アッコにおまかせ!』などに出演した[2]。 情報番組・バラエティ番組の担当が多く、同局アナウンサー時代は『JNNニュース』など報道番組を担当することはなかった。1989年3月に退社[6][7]・独立し、株式会社生島企画室を設立した(役職は最高経営責任者)。この頃の約10年間は年収億単位の状態で、バブル期もあって不動産投資や金融投資をした[2]。しかしその後、テレビの仕事の激減やバブル崩壊が重なって10億円もの借金を抱えた。月額700万円の返済に追われたが、本人の頑張りや周りの人に助けられてなんとか乗り越えた[2]。 古巣のTBSラジオでは、1998年から平日の早朝に冠番組『生島ヒロシのおはよう定食』と『生島ヒロシのおはよう一直線』を担当している。TBSラジオ内では生島による再春館製薬所の痛散湯など、健康に関係する薬品や食品のCMがたびたび放送される。 軽快な口調を「デフォルメ」して、『大沢悠里のゆうゆうワイド』の投稿コーナー『お色気大賞』では「軽いノリの部下、生島君」「一直線なサラリーマン・生島」「悪友ヒロシ」として大沢悠里が声色を駆使させ、時折登場していた[8]。 なお、生島は大沢悠里の「後輩」「元・部下」であり、洒落っ気を利かせた大沢が、上記のように『お色気大賞』に仮称:生島を登場させたり、『おはよう一直線』放送終了間際に大沢が「ゲリラ出演」したり、逆に『ゆうゆうワイド』ラストを前に大沢とのトークを『おはよう一直線』において対談を果たしている[9]。 2004年10月23日、新潟市で行った講演会を終えて帰京するため、17時19分新潟発東京行き上越新幹線「Maxとき332号」のグリーン車2階席にマネージャーと乗車していた際に、56分に発生した新潟県中越地震の直撃を受け、浦佐駅と越後湯沢駅間で約6時間も新幹線の中に閉じ込められた。また、同じ列車に嶌信彦も同乗していた。この経験から、防災士の資格を取得した[10]。 2011年3月11日の東日本大震災発生時は、ラジオを終えてから宮城県仙台市の仙台国際ホテル4階に出向き、講演会を行っている最中だった。その後、道路も各所で被害を受けた中、仙台市から約15時間をかけて帰京した。気仙沼市の実家には妹夫婦が住んでいたが、津波に流され、妹のみが5月に遺体で見つかった。義弟は未だ行方不明である[11]。なお、妹夫婦は2月に85歳で亡くなった母の納骨式を行うため遺骨と位牌を携えて3月12日に上京する予定だったが、母の遺骨と位牌も津波の被害に遭い流失した[12][13][14]。 2018年2月、緑内障の手術を受け経過良好であると伝えられた[15]。
略歴