生名_(海防艦)
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生名
1944年(昭和19年)10月、大阪湾で公試中と推定される生名[1]
基本情報
建造所日立造船桜島造船所
運用者 大日本帝国海軍
第二復員省/復員庁
運輸省
海上保安庁
艦種海防艦(日本海軍)
掃海艦(第二復員省/復員庁)
特別輸送艦(復員庁)
定点観測船(運輸省)
巡視船(海上保安庁)
級名御蔵型海防艦(1944年9月)
おじか型巡視船(1954年1月)
建造費5,112,000円(予算成立時の価格)[注 1]
艦歴
計画改マル5計画
起工1944年6月30日[2][3]
進水1944年9月4日[2][3]
竣工1944年10月15日
除籍1945年11月30日(日本海軍)
1947年12月26日(復員庁)
1963年5月25日(海上保安庁)
改名生名(1944年9月)
生名丸(1947年12月)
おじか(1954年1月)
要目(竣工時)
基準排水量940トン
全長78.77m
最大幅9.10m
吃水3.06m
主機艦本式22号10型ディーゼル2基
推進2軸
出力4,200hp
速力19.5ノット
燃料重油 120トン
航続距離16ノットで5,000海里
乗員定員149名[注 2]
兵装45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
25mm機銃 3連装5基、単装1基
九四式爆雷投射機3基
爆雷120個
搭載艇短艇3隻
レーダー22号電探1基
13号電探1組
ソナー九三式水中聴音機1基
九三式水中探信儀1基
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生名 (いくな[4])は、日本海軍海防艦。普遍的には日振型海防艦の5番艦とされており、本艦を鵜来型海防艦に含める文献も存在するが、海軍省が定めた艦艇類別等級では御蔵型海防艦の13番艦。太平洋戦争を生き延びて戦後は掃海に従事し運輸省の定点観測船、次いで海上保安庁巡視船となった。艦名は愛媛県生名島にちなむ[5]
目次

1 建造に至る経緯

2 艦歴

2.1 起工-竣工-訓練

2.2 船団護衛

2.3 対潜哨戒

2.4 掃海艦

2.5 定点観測船-巡視船


3 生名海防艦長/艦長

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典


5 参考文献

6 外部リンク

建造に至る経緯

改マル5計画の海防艦、第5251号艦型の4番艦[注 3]、仮称艦名第5254号艦として計画されたが、日立造船に建造が割り当てられた本艦は、用兵側から要望のあった掃海具を装備した通称「日振型」として建造されることとなった。なお、改マル5計画により日立造船で建造された久米以下6隻はマル急計画艦とは異なり、全艦が掃海具を装備せずに九四式爆雷投射機と三型爆雷装填台を1基ずつ増備して竣工している。
艦歴
起工-竣工-訓練

1944年6月30日[2][3]、日立造船株式会社桜島造船所で起工。9月1日、生名と命名され御蔵型に分類されて同級の13番艦に定められる。4日[2][3]、進水。10月15日竣工し、本籍を佐世保鎮守府、役務を佐世保鎮守府警備海防艦にそれぞれ定められる。同日付で呉防備戦隊に編入され、基礎術力練成教育にあたる。11月15日、連合艦隊第三十一戦隊第二十一海防隊に編入され、海防艦干珠から海防隊司令部を継承し第二十一海防隊司令海防艦となる。20日、第三十一戦隊は連合艦隊北東方面艦隊第五艦隊指揮下となる。
船団護衛

30日0900、2A型戦時標準貨物船江ノ浦丸(日本郵船、6,968トン)、海軍配当船で2AT型戦時応急タンカーの延長丸(日本郵船、6,888トン)、海軍配当船で2AT型戦時応急タンカーの延元丸(日本郵船、6,890トン)等輸送船15隻で編成されたミ29船団を駆逐艦朝顔、海防艦干珠新南、第41号海防艦、第66号海防艦、第223号駆潜特務艇と共に護衛して門司を出港。しかし、12月1日深夜、船団は米潜シーデビル(USS Sea Devil, SS-400)にレーダーにより発見される。翌2日0414、北緯30度24分 東経128度17分 / 北緯30.400度 東経128.283度 / 30.400; 128.283の屋久島西方約150キロ地点付近で、シーデビルは魚雷4本を中型貨物船に向けて発射したものの、命中しなかった[6]。0424、シーデビルは魚雷2本を大型貨物船に向けて発射。40秒後、海軍給糧艦間宮の設計の基となった陸軍輸送船はわい丸(南洋海運、9,467トン)の2番船倉に魚雷1本が命中。魚雷命中により搭載していた弾薬とガソリンが誘爆して大爆発したはわい丸はわずか40秒で沈没した[7]。0429、シーデビルは距離1,200メートルにある大型貨物船に対して、艦尾発射管から4本の魚雷を発射。0430、2AT型戦時応急タンカー安芸川丸(川崎汽船、6,895トン)の4番船倉に第1弾が、その30秒後に3番船倉に第2弾が命中。0520、安芸川丸は4番船倉の被雷部で船体が折損し、0607に沈没した。このとき沈没した輸送船には読売ジャイアンツの名投手沢村栄治が乗船しており、この12月2日の雷撃で戦死している。『日本商船隊戦時遭難史』によれば、この日に沈没した輸送船は安芸川丸とはわい丸だけであり、沢村はそのどちらかに乗船していたと見られている。はわい丸にはシンガポールへ進出する海上挺進第22戦隊60名、および震洋60隻、陸軍車両50両、弾薬・ドラム缶詰めのガソリン等軍需物資、満州からマニラに進出する第23師団の一部、シンガポールへ進出する海上挺進第22戦隊および同戦隊基地第22大隊将兵、計1843名、船砲隊及び警戒隊計83名、船長以下船員148名、合計2,074名が乗船しており、全員戦死した。安芸川丸でも陸軍高射砲隊409名、便乗者16名、鋼材、開発資材各750トンを乗せており、陸軍兵士244名、警戒隊7名、便乗者1名、船員18名が戦死したほか、救命ボートで脱出して諏訪之瀬島に漂着した生存者79名のうち、2名が死亡した。また、貨物船伯刺西爾丸(大洋興業、5,860トン)が自らが投下した爆雷の炸裂により損傷する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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