生きてみたいもう一度_新宿バス放火事件
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杉原 美津子(すぎはら みつこ、1944年3月11日[1] - 2014年12月7日[2])は、日本の女性ノンフィクション作家新宿西口バス放火事件の被害者として、手記『生きてみたい、もう一度』を刊行してベストセラーとなり、『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画化された[3]
経歴

1944年昭和19年)生まれ[1]愛媛県出身。編集プロダクションを経てフリー編集者となる。旧姓:石井美津子(いしい みつこ)。

1980年8月19日に発生した新宿西口バス放火事件で被害に遭い、全身80%火傷の重傷を負いながら一命を取り留め、回復したことをきっかけに執筆を始める。「犯人だけが悪いのか」「犯人もまたある種の被害者だったのではないか」と問いかけ、加害者と直接面会するなどの活動を続けた[4]

新宿西口バス放火事件での火傷治療で使用された非加熱血液製剤によりC型肝炎に感染し、2009年肝臓ガン告知されたことを機に執筆した『ふたたび、生きて、愛して、考えたこと』で、2010年3月に第3回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」特別賞を受賞した[5][6][7]

2014年2月28日に放送された『NHKスペシャル』で「聞いてほしい 心の叫びを ?バス放火事件 被害者の34年?」として、杉原の活動が取り上げられた。

2014年12月7日愛知県名古屋市名東区の自宅で肝臓がんのため死去した[2]。70歳没。

2015年2月発行の『文藝春秋』通算93巻3号に「シリーズ「生と死の淵から」二大手記」として「遺稿掲載 新宿西口バス放火事件?被害者が書き続けた「死の記録」 「二度の死」に襲われたわたし」が掲載された[8]
『生きてみたい、もう一度』

1983年、新宿西口バス放火事件に関する手記『生きてみたい、もう一度』を出版。1985年に『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画化された[3]監督恩地日出夫、主演:桃井かおり・犯人役:柄本明)。

杉原は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため、全身80%火傷の重傷を負った。その後に回復し事件から約1年後に退院すると、自らの希望で東京拘置所へ留置されている被告人に接見を試みた[9]。この時は被告人が面会室に現れなかったため、面会は叶わなかった[9]。1981年7月末に退院すると、同年12月には獄中の加害者宛に「どうかもう一度生きてみてください。やり直しはできます」という手紙を送った[10]

被告人の無期懲役確定後に、杉原は受刑者の弁護人を務めていた弁護士・安田好弘と共に千葉刑務所を訪ね[11]、1991年(平成3年)4月には受刑者と特別に面会を認められ、翌月(1991年5月)には「努力して早く出所できるように頑張ります」という手紙を受け取ったが、結果的にこれが加害者からの最後の手紙となった[9]

当時、被害者は被告人と接見することはできなかったが、この時は例外的に認められた[12]。杉原は「もし受刑者が仮釈放されたら自分が身元引受人になろう」と考えていたが、これは実現しなかった[11]。なお、2000年代に入ってからは「更生プログラム」として場合により被告人と被害者が接見することも可能となった。

また、杉原の兄である石井義治は報道写真カメラマンであった。彼はバスが放火された時に偶然そばを通りがかっており、本能的に燃え上がるバスを撮影し、その写真は翌日の読売新聞の一面にスクープとして大々的に掲載された[3][12]。映画本編では義治が撮影した事件直後の写真が提供されている[3][12]。だが実妹がその事件で重傷を負う中、妹に救護の手を差し伸べていなかったことを知った彼は、そのショックで報道カメラマンを引退し、その後にペンネームを「イシイヨシハル」と改名して風景写真の分野へと転向した[13]
映画

生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件
監督
恩地日出夫
脚本渡辺寿
中岡京平
恩地日出夫
原作杉原美津子
製作植村伴次郎
出演者桃井かおり
石橋蓮司
初井言榮
柄本明
音楽毛利蔵人
撮影上田正治
岸本正広
編集阿良木佳弘
製作会社ヴァンフィル
配給東映クラシックフィルム
公開 1985年3月2日
上映時間126分
製作国 日本
言語日本語
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あらすじ

1980年8月19日、新宿駅のバス乗り場に停車中のバスの中で、石井美津子は他の乗客とともに発車時刻を待っていた。その時バスに近づいてきた一人の男によってバスが放火され、瞬く間に炎に包まれた。乗客たちはパニック状態となり、美津子は炎を前に逃げ遅れて大やけどを負う。病院に担ぎ込まれた美津子は、連絡を受けた家族や仕事仲間の杉原が見守る中、緊急手当が行われる。

美津子のやけどは全身の80%に及び、四肢の運動障害も生じたため、中島医師の治療を受けることとなる。美津子は燃えた髪の毛を丸刈りにして母・なお子に付き添われ、長い入院生活を送ることとなる。美津子は辛い治療に耐え複数回に渡る皮膚移植が完了し、12月にはかろうじて一人で歩けるようになる。


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