甘粕正彦
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甘粕 正彦
1940年
生誕1891年1月26日
日本 宮城県
死没 (1945-08-20) 1945年8月20日(54歳没)
満洲国 新京
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1912 - 1923
最終階級陸軍大尉
出身校福島師範附属小学校
津中学校(現・三重県立津高等学校
名古屋陸軍地方幼年学校
陸軍中央幼年学校
陸軍士官学校
配偶者甘粕ミネ
子女長女:雅子、長男:忠男、二女:和子
親族父:甘粕春彦、母:志け
弟:二郎(三菱信託銀行社長・会長)、三郎(陸軍中佐)、他3名
妹:伊勢子、他2名
従兄弟:甘粕重太郎見田石介
除隊後満映理事長
墓所多磨霊園
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甘粕 正彦(あまかす まさひこ、1891年明治24年〉1月26日 - 1945年昭和20年〉8月20日)は、日本陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代にアナキストの大杉栄らを殺害した甘粕事件で知られる。事件後、短期の服役を経て日本を離れて満洲に渡って関東軍特務工作を行い、満洲国建設に一役買う。満洲映画協会理事長を務め、終戦の最中に現地で服毒自殺した。
経歴
生い立ち

明治24年(1891年1月26日宮城県仙台市北三番丁に旧米沢藩士で当時宮城県警部だった父・甘粕春吉と、母・内藤志け(仙台藩士内藤与一郎の娘)の長男として生まれる[1]第四次川中島の戦いでの奮戦で知られる上杉家家臣甘粕景持の子孫で、銀行家の甘粕二郎と陸軍の甘粕三郎陸軍大佐は弟。陸軍中将甘粕重太郎は従兄弟。マルクス経済学者見田石介は父方の従兄弟で、石介の子が社会学者見田宗介、孫が漫画家見田竜介である。三菱電機副社長を務めた甘粕忠男は長男[2][3]

1897年(明治30年)、父の転勤で福島師範附属小学校に入学[1]。その後、津中学校(現・三重県立津高等学校)・名古屋陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月に陸軍士官学校を卒業する[1]
憲兵へ

士官候補生第24期として卒業(同期には岸田國士がいる)、大正元年(1912年)12月に陸軍少尉に任官。当初は歩兵科であったが、1918年(大正7年)7月中尉の時に転科し、憲兵中尉となる[4]。歩兵から憲兵への転科は陸軍戸山学校1915年〈大正4年〉9月に入学)で負った膝の怪我が理由とされ、転科に迷っていたところを上官東條英機と相談し積極的な意見を受けて憲兵となったという。この時朝鮮楊州憲兵分隊長を拝命する。

その後、憲兵司令部副官憲兵練習所学生の後、1921年(大正10年)6月憲兵大尉に進み、市川憲兵分隊長を命ぜられる。折から勃発した野田争議では労使それぞれの代表者を仲介し、調停の糸口をつけることに成功[5]。翌年1月渋谷憲兵分隊長に移り、大正12年8月から麹町憲兵分隊長を兼ねる。なお、東京憲兵隊本部で甘粕の給仕を務めていたのが後に政治家となる福家俊一である。
甘粕事件詳細は「甘粕事件」を参照

1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災の混乱時に、9月16日、東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕はアナキスト大杉栄伊藤野枝とその甥・橘宗一(6歳)の3名を憲兵隊本部に連行し、最終的に殺害、同本部裏の古井戸に遺体を遺棄した、いわゆる甘粕事件を起こした。

事件では憲兵隊や陸軍の法的責任は全く問われることなく、部下らも甘粕の命令に従っただけで軍法会議では無罪とされ、すべて甘粕個人も単独責任として処理され、同年12月8日禁錮10年の判決を受ける。これにより正七位を失位[6]勲六等及び大礼記念章大正三年乃至九年戦役従軍記章を褫奪された[7]軍法会議において甘粕は「個人の考えで3人全てを殺害した」、「子どもは殺していない。菰包みになったのを見て、初めてそれを知った」、「子どもはどうしても殺せず、部下らに命じた」等とたびたび証言を変えており、共犯者とされた兵士が「殺害は憲兵司令官の指示であった」との供述もあるなど、この結論に後の時代でも、しばしば疑義が挙がる。

判決後、甘粕から塚崎直義弁護士へ宛てた手紙がある。

第一信  大正十二年十二月九日
獄中から謹んで御礼を申上げます。(中略)殊に私が予審に於て述べ又先生に対しては真なりと申上げたことにして、法廷に於いて下級者の為めに主張せず、弁論途中に於いて武士の心情を解せざる弁護人の問に遇ひ、先生の論旨に反するが如き(然も事実にあらざる)答辞をなせしが如きは、先生に不満不快の感を懐しめ、且弁論を困難ならしめたことと存じ、甚だ申訳なく思ふ所であります。本人たる私としても、事実を曲げ自己に不利な様に申立てなければならなかつたことは、人間として甚だ残念に存ずるところであります。然し先生に考えていただきたいのは、軍人としての私の苦しい立場であります。現に醜い例が眼前にあつたではありませんか。然るに此の陥り易い人間の性情に反して、承知の上で自己に不利なる様に陳情し、今日十年の苦役を甘受せざるべからざりし私の胸中をも、少しく御了察下されて凡てを免していただきたいのであります。(後略)

篠崎は判決後も事件の真相を知ろうと甘粕の胸を叩いていたが、何も聞き出す事は出来なかった。しかしこの手紙で、甘粕は公判廷で虚偽の陳述をした事だけは明らかにしている。甘粕自身がこの事件に触れたのは、この手紙が最後である[8]
出獄・渡仏仮出所後の1926年11月3日、アナキスト殺害について記者会見に臨む甘粕正彦(中央)。

千葉刑務所に服役している最中に皇太子御成婚に伴う恩赦があり刑期は7年半に減刑。さらに謹直な獄中生活が評価され、1926年(大正15年)10月6日に仮出獄[9]予備役となる。甘粕には甘粕事件の裁判中、社会主義者を憎む多数の資産家から大量の義捐金が寄せられたとも伝えられ、また獄中から本を出し、これもかなり売れたとされるが、生来の博打好きで、これらの金を博打で失ったようで、出獄後さほども立たないうちに取材を受けた新聞記者には苦境と将来の不安を訴えている[10]。なお、仮出獄直後から、さまざまな新聞記事で甘粕の動向が報じられていたが、同年10月31日、偶然に山奥の旅館で甘粕と遭遇したとする東京朝日新聞の記者によれば、甘粕は、この時点で初めて新聞記者と遭ったと語っている[11]

1927年(昭和2年)初頭、甘粕事件直前に婚約していたミネ(旧姓:服部)と結婚[12]。同年7月から陸軍の予算でミネと2人でフランスに渡る。渡仏当初はフランス陸軍大学校に留学していた澄田?四郎、澄田帰国後は新たに同じくフランス陸大に留学してきた遠藤三郎が甘粕夫妻の生活の面倒をみた。


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