甘南美内親王
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甘南美内親王
時代
平安時代前期
生誕延暦19年(800年
薨去弘仁8年2月21日817年3月12日
父母父:桓武天皇、母:藤原東子
兄弟平城天皇朝原内親王長岡岡成伊予親王良岑安世嵯峨天皇淳和天皇葛原親王大宅内親王高津内親王万多親王高志内親王明日香親王仲野親王佐味親王坂本親王賀陽親王布勢内親王葛井親王安勅内親王賀楽内親王菅原内親王、甘南美内親王、伊都内親王
平城上皇?
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甘南美内親王(かんなびないしんのう、延暦19年(800年) - 弘仁8年2月21日817年3月12日))は、平安時代初期の皇族。甘南備内親王とも表記する。桓武天皇皇女で、母は従四位下・藤原東子(藤原種継女)。藤原薬子および藤原仲成らは母の兄弟姉妹である。
生涯

延暦19年(800年)、桓武天皇の晩年に生まれ、弘仁8年(817年)、無品のまま18歳で没した。

本朝皇胤紹運録』の甘南美内親王の項に「平城納之」とあり、26歳年長の異母兄・平城天皇の後宮に入ったとされる。甘南美内親王の生年からすると、平城天皇が譲位して平城京に移り、大同5年(810年)の薬子の変で寵愛する藤原薬子を失った後のことであると考えられる。

ただし、平城天皇の伝記を書いた春名宏昭は平城天皇の即位時に内親王は7歳であり、4年後に起きる薬子の変後の入内では政治的な意味が見出せない[注釈 1]ため、以下の可能性を指摘している[1]

『本朝皇胤紹運録』の大宅内親王の項に平城天皇の妃となった事実が記載されておらず、大宅内親王と甘南美内親王を取り違えて「平城納之」と記載してしまった。→平城天皇の妃になった事実はない。

『本朝皇胤紹運録』の甘南美内親王の項に享年を28歳と記すべきところを誤って18歳と記載してしまった。→桓武天皇が側近である種継の外孫を東宮(平城天皇)に託した。

母である藤原東子が薬子とは姉妹であったことから、薬子が幼い姪の入内を働きかけた。→享年18歳が正しい場合、平城天皇の即位後に入内した可能性が高いため。

脚注
注釈[脚注の使い方]^ 平城上皇は平城宮に閉居し、子孫への皇位継承の可能性が事実上喪われたため。

出典^ 春名宏昭『平城天皇〈人物叢書〉』吉川弘文館、2009年、100-102頁。 

参考文献

角田文衛 監修 『平安時代史事典』
角川書店、1994年。

芳賀登 他 監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1998年。










内親王(飛鳥時代 - 江戸時代)
大宝律令施行(701年)以後で、内親王と公称した人物とする。
飛鳥時代

泉内親王

御名部内親王

水主内親王

田形内親王

託基内親王

但馬内親王

泊瀬部内親王

氷高内親王

吉備内親王

奈良時代

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衣縫内親王

坂合部内親王

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平安時代

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包子内親王


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