甘利氏
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}割菱(わりびし)
本姓清和源氏武田氏流甲斐一条氏
家祖甘利行忠
甘利氏(あまりし)は、日本の氏族の1つ。甲斐源氏武田氏の分家・甲斐一条氏の一族である。 鎌倉時代の元暦元年(1184年)6月14日[2]、忠頼は鎌倉の源頼朝の刺客により誅殺され、子・行忠も父に連座して常陸国に配流・翌年4月に殺害された。頼朝による甲斐源氏の勢力削減策の一環とみられる。 甘利荘はこの際に接収されており、鎌倉後期には北条得宗領となっている。ただし南北朝期の訴状で、甘利荘が忠頼の子孫に返付されたことが先例にみえ[3]、甘利荘は北条領から甲斐源氏一族に返却されたと考えられているが、甘利氏の下に戻ったのかは不詳。「忠頼の子孫」も、甘利行忠の子・行義
概要を始祖とする。行忠は甘利荘内に館を構えて甘利氏を称したという[1]。館跡は現在の山梨県韮崎市旭町上條北割の大輪寺境内にある。
鎌倉時代
『続群書類従』の「武田系図」によれば、甘利行忠の子・行義の後は、頼高―頼行―宗信と続いているが[4]。それ以降は不明である。 その後、甘利氏は断片的に史料に登場し、戦国時代には武田氏家臣の譜代家老で「両職」を務めたと言われる甘利虎泰(備前守)、虎泰の子甘利信忠(昌忠)とその子息・信頼
戦国時代
甘利信康は虎泰の次男で、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死したという。信康の子・信恒(三郎次郎)は事跡不明であるが、『当代記』によれば天正4年9月に遠江国小山の陣中で殺害されたとしている。
信忠の子・信頼(二郎四郎)は永禄10年(1567年)に信忠が死去すると、幼少であったため『甲陽軍鑑』によれば米倉丹後守が「陣代」を務めたという。さらに甘利信康が名代であったとも考えられている。信頼も長篠の戦いにも従軍し、以後勝頼に仕えて活動している。 自民党の衆議院議員で、麻生内閣では内閣府特命担当大臣、第2次安倍内閣では内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)に就任した甘利明はこの一族の子孫を自称している[6]。
武田氏滅亡時とともに離反した人物に「甘利左衛門尉」があり、これが甘利信頼を指しているとも考えられている。その後の動向は不明。
近現代
脚注[脚注の使い方]^ 『尊卑分脈』
^ 『吾妻鏡』
^ 「八坂神社記録」の社家記録裏文書(『山梨県史 資料編6下』310頁に収録)
^ 『続群書類従』第121巻収録「武田系図」
^ 『甲斐国志』ほか。
^ ⇒甘利明公式ホームページ|プロフィール|甘利明はこんな人 [リンク切れ](日本語)
参考文献
太田亮 『姓氏家系大辞典』姓氏家系大辞典刊行会、1936年。
山梨県編 『山梨県史』通史編2、山梨日日新聞社、2007年。
『山梨県姓氏歴史人物大辞典』